王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

プリーズ、アップデート ~Travis Japan主演『虎者 -NINJAPAN- 2020』~

イントロダクション

 昨年秋の初演から引き続き、Travis Japan(以下、トラジャと表記)『虎者 -NIN JAPAN-』(以下『虎者』)が本年も上演された。2020と西暦を追記した今年、上演内容は同タイトルながら、昨年のものとはシナリオに大きく変更があった。
 昨年の初演版と、その辺の諸々については、公演直前にこんな記事を書いている。本記事を読む前にまずこちらに目を通していただきたい。

nasamu-konirom.hatenablog.com

 読んでいただけただろうか。スルーして先に進むつもりのちゃっかりさんな諸君向けに一口でまとめると、ようは「色々と疑問と禍根の残る内容だった」わけである。
 ここから変更を経た本年度の『虎者2020』が、果たしてどのように変わっているのか、が、本作を観劇するにあたって一番の関心ごとだった。「変わった」部分はもちろん、「変わっていない」部分があるとしたら、そこが新版・旧版を通じて示されている『虎者』の「芯」「核」あるいは「本質」とでも表現できる部分だろう。変更点の分析をすることで、そこを明らかにし、この『虎者』という舞台をきちんと理解したい。そう願って、私は配信チケットの申し込みをした。
 

で、当落が出たわけだが、

 まさかの配信公演ですら落選者続出という事態に見舞われ、開幕以前の段階で混迷極めることとなった。ただでさえ高倍率の舞台だったところを疫病によって公演会場・日数・席数をも減らされ、そこをカバーするための配信公演であったはずなのに抽選式で、一公演しか希望していなかった人さえ容赦なく落とされていたと聞く。さては事務所、舞台を見て欲しくないんだな? と疑念すら抱く展開である。とくに今回は予定していた地方公演を取りやめている。長距離移動を自粛すべく東京新橋公演への申し込みを見送ったファンもいただろう。そういう気遣いを無下にし砂をかけるようなやり方なんじゃあないか。畢竟、文化は押しなべて東京のもので、地方は都合のいい養分として吸い取られこそすれ、顧みられることなんてないんじゃあないか、と。
 
 そんな想定外のところで想定以上にカチキレしてしまい、直前の雑誌情報によるモヤりも相まって、心身疲弊の状態からスタートした今年の公演。(プラス日常業務での疲弊もあり、盛大にケンカを売っておきながらいつにも増して筆が遅くなってしまった。まぁ、年を越さなかっただけマシと思え!)運良く滑り込んだ10月26日夜の配信回と、昨年11月22日・26日の夜の回を当時残したメモから思い出しつつ、比較検討していきたい。以下、当然のごとくネタバレ含。
※基本的に昨年(2019年)の初演版は『2019』または初年度、今年の公演は『2020』と表記し、『虎者』は両年通じての作品そのものを示す。また作中のトラジャメンバーを指す固有名詞についてはカッコなしの虎者、それ以外のなんだかよくわからない概念、一般名詞的用法はひとまず「虎者」と分けて表記する。
 
 

基本設定と話の流れ『2019』版(公演会場:東京/愛知/京都/広島)

・Eternal Producer:ジャニー喜多川、構成・演出:滝沢秀明(パンフレットのスタッフクレジットより)
・舞台は近未来。
Travis Japanは7人兄弟で、各々に役名の設定はなく、虎者としてのみ関係図に記載され、さらにメンバーの実年齢順で上から4人(川島・七五三掛・吉澤・中村)が「碧鷺」、下3人(宮近・松倉・松田)が「紅孔雀」とチーム分けされている。
・虎者は生き別れの妹を探している。(パンフレットのあらすじに記載。本編中にそんな様子は見当たらない)
・闇の帝王「朱雀」は虎者の父であるが、そのことを虎者は知らされておらず、闇の部下として日々修業に励んでいる(闇の活動? はまだしていない?)
・朱雀には娘「カゲロウ」がいる。つまりカゲロウは虎者たちの妹である。子供らはそのことを知らない。
・朱雀には他に「オオワシ」「ハヤブサ」という配下のものがいる。二人はひそかに朱雀への謀反をくわだてている。
・虎者が朱雀と戦い、打ち倒すが、なんだか物悲しい「こんなはずじゃなかった」的な雰囲気をかもしている。オオワシハヤブサ語り部のように「こうなった経緯をこれから見せます」というような口上を述べ、本編開始。
・カゲロウは虎者に謀反の疑いをかけている。
・朱雀は「闇の虎者」(?)となる宿命でありながら希望の光を秘める息子たちのことが気に入らない。
・カゲロウは修業中の虎者にちょっかいをかけに行き、メンバーの誰かに恋をする(相手は明かされない)
・「闇の世界に恋とかいらないよの歌」を歌う闇の王さん。
・LEDのスティック&タップのパフォーマンス。カラーは赤(紅孔雀)青(碧鷺)緑(朱雀と手下2名)
・娘カゲロウの恋心に気づいた朱雀は、虎者たちとカゲロウを呼び出し、虎者が己の息子であること、カゲロウと彼らが兄妹であることを暴露し、妹を殺せと命じる(急)
・朱雀のやり方に怒った虎者たちは、赤青の装束を白の装束に変え「真(まこと)の虎者」となる。戦隊ものの決めポーズでバーン。
・激しい戦闘が始まる。プロジェクションマッピングとのバトル、ウォールトランポリン、光魔法オーバーヘッドキック、アクロバティック父上パンチ、紅い翼などを披露。
・強大な闇の力を前に追い込まれる虎者たち。優位に立ち続ける朱雀の背後にカゲロウが忍び寄り、朱雀を刺す。
・父を刺してしまったことにショックを受けるカゲロウ。カゲロウのフォローをしつつ、斃れる朱雀に駆け寄る虎者たち。
・朱雀は「真の虎者」を目指していたが、妻を亡くしたことがきっかけで闇落ちしたことをしみじみ語り始める(急)
・朱雀は死に、虎者たちとカゲロウは泣き、『Namida~』の詠唱とともに終幕。

基本設定と話の流れ『2020』版(公演地:東京・新橋演舞場)  

・Eternal Producer:ジャニー喜多川、構成・演出:滝沢秀明、脚本:藤咲淳一(パンフレットのスタッフクレジットより)
・ときは近未来、の、銀河のとある星(舞台設定追加)
・トラジャメンバーの兄弟設定、役名なし設定は昨年と共通。
・赤、青の衣装および「紅孔雀」「碧鷺」という名称のパンフレット(プログラムページ)への記載はあるにはあるが、本編中で「紅孔雀」「碧鷺」と呼ばれる場面はない(『2019』ではオオワシハヤブサのナレーション中に登場する)
・「朱雀」は闇の帝王ではなく「銀河の英雄」。武器を捨て、「舞の力」で銀河の平和を治める王である。
・カゲロウは娘ではなく「宇宙の平和を脅かす極悪人」である、「修羅大将軍」の頭(かしら)。 
・「ハヤブサ」はカゲロウ軍団の構成員だが、カゲロウに反抗的で自分で自分に「様」とか付けちゃう。前年シンメ位置にいた「オオワシ」は不在。(同役者はいるが役名はない)(この五人はその他パクターズと合わせて「修羅五人衆」というらしいが、本編中にもパンフレットでも明かされず、雑誌記事などで記載されているのみである。) 
・カゲロウ軍団は朱雀を捕らえるが、真の狙いは7人の息子、虎者たちだと語る。
・父が捕らえられたことを知り、虎者たちが集まって会議をしているところへ朱雀捕縛の下手人はカゲロウであることを伝える矢文が(律儀に7本も)飛んでくる。すぐにでも行動しようとする赤チームと、罠を疑い落ち着かせようとする青チーム。最終的には朱雀を助けに向かうことを決める。
・カゲロウvsハヤブサ第2ラウンド。ハヤブサ様以外のショッカーのみなさん、もとい修羅四人衆は普通にカゲロウに従っている様子。
・スティック&タップのパフォーマンスは朱雀不参加でショッカーのみなさん増員。色は前年に引き続き各陣営のカラーは赤(紅孔雀)青(碧鷺)緑(ショッカー)。
・虎者、現場に駆け付ける。カゲロウたちは虎者に、朱雀は「極悪人」の「残虐王」であると告げる。(このとき虎者はとくにリアクションなし?)
・虎者、一時退却。カゲロウvsハヤブサ第3ラウンド。
・虎者、「真の虎者」の白衣装にチェンジ。刀を手に戦闘員と戦う。(如恵留さまのスーパーヒロインタイムがある)
・舞台中央で回転する機構がウォールトランポリンの追加。ダークマターと戦うプロジェクションマッピングは昨年同様。
・父上と幼き虎者のナレーション。虎者は父のように平和を愛し、「伝説の虎者」になることが目標らしい。
・ウォールトランポリン、光魔法オーバーヘッドキック。(紅い翼はなし。)
・追いつめられる虎者のもとに朱雀が引っ立てられてくる。朱雀は虎者たちの姿を見て「ついに虎者になったのか」と感嘆の言葉を漏らす(じゃあ今までは何だったんだ?)
・虎者の目の前で朱雀を刺すカゲロウ。虎者は平和を愛する者として力を振り絞り、カゲロウを抑える。
・虎者の技の前にカゲロウが倒れたとき、まだ死んでいなかった朱雀がかつての残虐王としての顔に戻り、妖しい力でカゲロウを締め上げる。
・カゲロウ、かつて朱雀に身重だった母を殺されたことを告白。父の妖しい闇パワーを前におののく虎者。
・ついに開き直った朱雀。カゲロウにとどめを刺そうとするが、息子たちに制止される。前年とほぼ変わらない父と子のセリフの応酬。
・息子たちは父を許し、父を殺そうとしたカゲロウをも許す。カゲロウはこれで「改心」することなく、捨て台詞を吐いて逃走し、朱雀はいずこかへと去る(台から舞台奥への飛び降り=死んでる?)
・カゲロウはかたちを変えて再び襲い来る。おれたちトラジャの伝説は始まったばかりだ!(幕)

『2019』『2020』比較しての所感

 こういったパフォーマンス優先企画の宿命(メインのパフォーマンスの練習のために台本読んでお芝居の稽古をしている暇がない)なのか、ドラマパートは激・薄味。『2020』では台詞がやや増えるが、主に追加されたのは悪玉サイドのドラマである。
 アクション監修がいわゆる「ニチアサ」特撮で働いている方であることを差し置いても、「特撮ヒーローものらしい」とそこかしこで評されているのもわかる。特撮番組も「売りたいおもちゃの企画」優先で作られ、フォーマットがほぼ決まっているものだ。『虎者』の場合優先される「おもちゃ」にあたるのは「海外ウケする和もの=ニンジャ=壁を走ったり飛んだりするパルクール風アクション」から導き出された「ウォールトランポリン」という企画だろう。その企画を乗せるドラマには、わかりやすい善玉がいて、わかりやすい悪玉がいる。「もりのなかにはわるーいおおかみがすんでいました」レベルの単純化された善/悪だが、『虎者』はさすがに幼児向けではないので、純化された善悪の中にやや複雑性を含ませている。『2019』ではメインキャストを悪玉側に置き、悪玉の中に希望や理想をもつ虎者――「闇の虎者」ではなく「真の虎者」になれる者がいる、という様子を描く。『2020』では「英雄王」とされる父がかつての昔に「残虐王」であった、という設定になり、そこも共通する点だろう。(「昔はやんちゃしてたけど嫁ができて子供生まれたからいいパパになったんだよねっていう元ヤン」レベルの話でしかないんだけども)(世界観が宇宙規模のわりに話してることがちいさくて、A国で武勇を讃えられる将軍はB国にとってはただの無慈悲な侵略者である、とかいう話でもない)
 でもって、決定的に違うのは「許さない」という選択が認められているというところ。『2019』はメイン全員が朱雀の子であり、子は親を選べず、半自動的に親を慕うものだという安易そのものの結論に至る。兄弟が個々の人格をなくし思考をクラウド化されたひとつの「虎者」という概念でしかないように見えるのも、それが理由だ。翻って『2020』では赤の他人となったカゲロウが、「許さない」という結論を出し、虎者たちと戦い続ける決意をして去って、再び戦いを挑んでくる。ラストのセリフを鑑みるに、「虎者」を「Travis Japan」そのものと重ねている(奴恵留さまの台詞「トラジャ伝説」のイントネーションが「虎者(忍者と同じ)」ではなく「トラジャ(煎茶と同じ)」に変わっている)ことから明白である。つまりメタ的に、ここで「虎者」の物語が円満解決し、戦いが終わってしまったら、まだ始まってすらいないらしい「トラジャ」としての伝説も終わってしまうので、「俺たちの戦いはこれからだ!」というかたちを取るしかなく、ゆえにカゲロウは彼らを許すことをしないのである。
 そういうメタな都合をさっぴいても「許さない」というのは結構な新機軸ではないかと思う。何も解決していないわけだが、そう易々と禍根は解決しないものだし、加害者がどんだけ詫びを入れようと許すか許さないかを決めるのは被害者だし、そもそも虎者サイドはきちんと詫びてないし、(なに「迎え撃とう」とか爽やかに言っちゃってんのよ)許されないのは当然なので、まぁ、この後いろいろやり合ううちに対話する機会も生まれるんじゃないかな。知らんけど。

思想はともかくどう考えても「ねえなー」と思うところ『2019』篇  

 やっぱりこちらは、朱雀が三回殺されるところかな!
『2019』年版ではOP前にステージの幕に投影されたラストシーンの映像と台詞で1度(通称「忙しい人のための『虎者』」)、幕が上がってから戦闘に見立てたパフォーマンスを経て抽象再現されたシーンで1度(通称「五分でわかる虎者」)、さきの再現シーンを受けて「こうなった経緯」として語り部に伝えられ始まる「本編のラスト」で、計3度も朱雀は死んでいる。前段で語ったとおり、初年度は同じエピソードを3回こすらないといけないくらい尺に対して内容が無いのだ。
 冒頭でおもいっきり結末バレさすのもひとつの表現手法ではあって、例えば先に犯人バレしてるタイプのミステリ(コロンボとか古畑とか)は、「犯人を見つけること」が目的ではなく「犯人と探偵役の駆け引きを見ろ」と言っている。それと同じように、結末から見せる『虎者』は「この作品はストーリー重視ではないです。そっちはどうでもいいのでダンスとかトランポリンとか役者の顔とか見てやってください」という大宣言なのだと思われる。
 男と女が寄ってくれば恋恋恋恋言いやがってキモ、というのはもうツッコミ疲れてるのでそこら辺に放っておくとして、親子家族の絆というわりに、3秒前に「私が父だ」「そしておまえたちは兄妹だ」と言われただけで、「家族だ!!」「父上!」「兄さま!」となるのは逆説的に「家族」を軽んじているように思えるんだよな。だって「あ、やっぱり家族じゃなかったです」と言われたら「そうか、他人か。じゃあどうでもええわ」ってなるわけですよね。それくらい軽い。綿毛のように軽い概念。それをもとに動く人物の感情も軽い。唯一、「このキャラクターには血が通っているな」と思ったのは、朱雀を刺し殺したカゲロウを閑也が「今は何も考えるな」とフォローするところ。そこだけです。
 イニシエーションとしての「父殺し」をしない(最後にとどめを刺したのはカゲロウである)のは旧来のマッチョイズムから解放されているようにも思えるが、ど~~~にも親の側の「痛い目みたくないから殺さないで」という都合によるものとして映る、というか、全体的に親に都合のいい造りすぎて、自覚ないなら薄気味悪い。
 あとこの、「虎者=トラジャ」である(『2020』ではほぼ確定事項)ことを踏まえたうえで、彼らの「父なるもの」「家族なるもの」といえばやはり「前社長」「事務所」なわけで、『虎者』の親子の関係性を解釈すると、「これまでユーたちのことろくすっぽ顧みず人気メンバーだけよそに引っこ抜いて歯抜けにして番組や雑誌でも散々無視ってネグレクトし続けてきたけどこんな親でも許してちょ」と、言っている、ことになるわけだが、そういうことでいいんすかね? ジャニーズの舞台は一見意味不明だけど戯画抽象化された現実のアイドルの深~~~~い表現なのだ派のみなさん?
 だとすればシンプルに最低だな~って思いますね。ぼかぁ。
 

思想はともかくどう考えても「ねえなー」と思うところ『2020』篇

 どうしても主役であるトラジャ=虎者に悪玉ムーブをさせられない(『2019』において、冒頭の戦闘シーンで朱雀を打ち倒してはいるがあれはあくまで抽象的イメージであって、本編で朱雀が死ぬ直接の原因はカゲロウである)なら、最初っから善玉サイドで始めとけ、という点を「善き王の黒歴史時代の話」に変えることで解決をみたのだと思われる。これは回りくどさがなくなったので、まぁいい。でもやっぱり書きたいのが悪玉サイドなのかカゲロウvsハヤブサのシーンがドラマパートの大部分を占めているため、実質『虎者』ではなく『ハヤブサ』になってしまっている。その割に劇終盤ハヤブサはぬるっとログアウトしてしまうので、「アイツ結局なにがしたかったの?」で終わる。おれはずっとハヤブサが物陰から現れて朱雀にとどめを刺すんだとばかり思っていたよ……。
 最大の破綻は善玉を善玉たらせる「武器を捨て『舞の力』で治世する」というめちゃくちゃ重要なポイント――わかりやすい暴力の象徴たる武器を廃し、歌やダンスで人の心を動かして争いを止めさせる魔法少女もののようなマジカルパワーは、悪玉とされる、破壊と暴力! 力こそすべて! というかつての「残虐王」やカゲロウ軍団の思想と対比させるための概念だ。少年漫画や特撮文法で表すなら「武力」に対する「舞力(ぶ-りょく)」とでも言うべきか。「ダンスで世界に夢を与える」トラジャのダンスパフォーマンスと度々示される深い愛情で心を動かされている我々には、現実にはあり得ない1000%ファンタジー・夢想だが、「そうであってほしい理想」として、真実受け止めることができるものだ。
 だからこそ、カゲロウ軍団との戦闘で刀を用いてはならんと思うんですよ。
 そこは貫き通すべきだろ! 朱雀、「舞力」は息子にすべて伝授したって言うとったやんけ!! なんでそこ刀使うん!? ありえなくない!? 『2019』序盤のかっちょいい戦闘シーン削っちゃったから、なんとなく海外ウケする和風っぽい要素追加したくてチャンバラやらせてみた、以外に考えられんのだが、設定と矛盾しとるし、トランポリンも増えたとこに殺陣の練習もしなきゃいけないしで、いっこも良くないですよ。敵は刀を持っていても虎者は得物を持たず、中盤のプロジェクションマッピング演出のときに見せた踊るような体術と、そこから発生するマジカルパワー(トランポリン中に如恵留さまが放つ光魔法オーバーヘッドキック的なアレ)のみで戦うべきだった。それができんなら「武器を捨て~」の設定はいらんかった。ファンタジーならファンタジーを貫き通して、頼む。『2021』再演するならここだけは絶対直してほしい。
 あと、カゲロウのキャラ造形は『2019』と比べてめちゃくちゃ良くなってて、墓場鬼太郎のような妖怪じみた出生エピソードも、「生まれた瞬間から自我を持ち自力で親の仇のツラを覚えて復讐しに来た」というパワフルさを感じられて良い、のだけども、カゲロウvsハヤブサ「女の武器~」のとこ、あれはまじでいらない。意味不明。カゲロウは軍団のヘッドなのに作戦のひとつも立てられず(朱雀を生け捕りにしておいて、虎者をおびき出すのではなく虎者側に攻め入ろうとしていたのマジで謎)(しかしあの中で策士らしいハヤブサの矢文の内容もたいがいおかしい。「下手人はカゲロウ」だけじゃなくて「おまえらの父親は俺の手に落ちた。救いたければ俺の星に来やがれ byカゲロウwith修羅五人衆」とかじゃないの?)大丈夫なのかと思うが、力こそすべて集団の頭なのでシンプルに「一番ケンカ強いのがボス」と思えば納得はする。けど、であるとするなら、あそこでカゲロウが下手(したて)に出るの何? だしハヤブサごとき秒でボコせないと頭なんてできなくね? ショッカーのみなさんは何であんなナメくさられ頭に大人しく従ってんの? 秒で謀反じゃね? と思う。『2019』と共通して悪のボスが謀反されまくり、仲間割れし放題なところは「悪は悪であるがゆえに善玉サイドのような“絆”はない」という描写なのだろうけども。
 いや~~なんか両年通して悪玉サイド(の複雑性)を書きたいんだろう(ジャニーズ自体が『ウエストサイド物語』をきっかけにしていて、ワルに憧れ悪役を演じさせたがる文化なのかもしらんなと、少年犯罪者の話である『少年たち』、浮浪児たちが盗みを働く『プレゾン2010』などを見ても思う)と思われるが、思い入れがあるように見えてクソ雑だし、書きたい方が雑だったらわりとどうでもいい方の善玉サイドなんて超超超雑になるのは当然というか。
 うーん、結局のとこ全体的に雑理解なんだよな。世界の解像度が。16bitくらいのガビガビの画像データくらい雑。情報の出し方も雑。さきに言及した矢文の件はもちろん、最初にカゲロウ軍団と対峙したとき、そこで初めて具体的な「残虐王」の話が出てくるわけだけど、そこで虎者の面々が台詞で強く反論することもなく(配信では個々の細かい演技が映らなかったので)さらっと流されてしまった印象がある。終盤で明かされる真相のインパクトを残すために、ここではカゲロウ軍団の悪っぷりのみ描写しといたほうが良くない?
 ドラマパートが増えた分、わかるようになった部分もありつつ、雑味も増してしまったところはある。もうちょっと、もうちょっと丁寧にやってくれ。頼む。
 

トラジャの名前問題~ジャニーズ舞台の「お約束」とその限界~

 話は変わって、ツイッターランドでも散見された、「なぜ、『虎者』ではトラジャメンバーの個々人に役名が与えられていないのか」問題である。
 これに関しては私の中で明確に答えの予測は立っている。「カイト」が3人いるからである。
 ジャニーズの舞台では、『Endless Shock』や『少年たち』のような作品がそうであるように、キャストの名前がそのまま役名に使われることが多い。舞台作品をある種の現実の戯画とし、役柄と役者=アイドルをリンクさせてメタフィクション的に楽しむような意図があるのだという。(また「十何人も登場人物を出す作品で役名なんていちいち覚えていられないしどうせオタクしか見に来ないから付ける必要ない説」も考えられる。)
『虎者』ももれなく、それらの舞台と同じようにトラジャというグループを戯画化して表現している。タイトルがそもそも『虎者(とらじゃ)』なのだ。これは「Travis Japan(トラジャ)の物語である」という前提がまず先に立つのだ。
 だからこそ、このキャスト本名=役名システムが、トラジャがグループで舞台をする際には完全に足枷なのである。だって、ふつう登場人物の名前がなんの意味もなく被るなんてことないじゃないですか。
 
 宮近海斗中村海人、松倉海斗の3名、通称「トリプルカイト」は、「同じグループに同じ名前のメンバーが3人もいる」という奇妙な偶然でもってトラジャを初めて見る者にインパクトを与え、ある種のフックとして取り上げられることも多く、グループのチャームポイントのひとつとしてファンに捉えられている。
 だが、フィクションにおいて、主要な人物として「カイト」を名乗る者が3人もいたらどうだろう。出生に秘密があったり、おおいなる創造神の意志が働いているという設定でもなければまず選ばない名付け方だ。もちろん現実はフィクションではないため、大した理由もなく、同い年で、同じ日に入所し、中学高校を同じクラスの同級生として過ごす同じ血液型の「カイト」3人組が生まれることもある。本当に、たまたまその年代にその名前が流行っていて、たまたま被っただけのことだ。
 これは現実をフィクションに落とし込むときに生じる歪みであり、本名=役名システムの限界なのである。
 KING&PRINCEの「Wゆうた」である岸優太と神宮寺勇太が主演をつとめるジャニーズ伝統の舞台『DREAM BOYS』においても同じ問題は発生しているが、こちらは神宮寺のほうのゆうたを「ジン」と呼称することで解決をみている。「ジン」はグループ内でも使われている愛称で演者・観客共に馴染みはあり、役者本人とのリンクにも問題はない。現代劇である作品の世界観を壊すこともない。
 一方、トラジャ内部において演者・観客間で共有できる愛称といえば、「チャカ」「ウミンチュ(ウミ)」「マツク」である。普段の彼らが呼び交わすぶんにはかわいらしい響きだが、シリアスな舞台においてあまりにも気が抜けている。 そして、彼らが「兄弟」の設定であるがゆえに苗字で呼び合うことも封じられている(近未来の銀河帝国の氏名制度は不明だが、現代に生きる我々が見るにあたって、苗字でしかない呼称で呼び合う「兄弟」には違和感を覚えるだろう)
 本名を役名として用いなかった、否、用いることができなかったのは当然なのだ。
 
・『虎者』をトラジャの物語とし、役者と役柄の同一性を保つためには、メンバーに新しい名付けをしてはならない。
・虎者は兄弟なので、別々の苗字を名乗らせることもできない。
・「カイト」が3人いるため、下の名前も使えない。
 
 この複合技によって彼らは固有の名を持たず、「わかりやすく“絆”っぽい演出」としてお互いに名前を呼びかけ合うこともできず、7人でひとつの「虎者」でしかないものとして舞台に立つよりほかは無かったのである。
 「カイト3人問題」によって、トラジャが今後『虎者』以外の舞台をグループでやるときにも、キャラ設定や世界観にけっこう制約が入るんですね。現代劇で苗字orかわいい愛称呼びがマッチする作品以外、ジャニーズでジャニーズらしい舞台をするにあたって、トラジャは一生名無しのままかもしれんですね。
 

総評

キャタピートランセルになったくらいの変化はあった。」
 来年こそは蝶になって羽ばたいてほしい。

おまけの細かい推し語り&メモ

・トランポリン中の如恵留さまがそのシルエットまで美しいのは言うまでもなく。それ以外も入り乱れているシーンで、ふとした瞬間にたたずまいの美しい人がいて凝視すると如恵留さまなのですよ。びびる。
・『2019』のOP後のイマジナリー戦闘シーンで朱雀を打ち倒した後、握りしめた己の拳をじっと見つめて俯いているところはしんどかった。自責する気持ちが人一倍強そうで、思い返すだにシメられた鶏みたいな顔してしまう。『2020』はカゲロウの激白を聴いてから父を問いただすくだりの、落ち着かせようとしているけど落ち着いていられないという絶妙な感情の表出が見事だった。「あなたは最低だ!!!!(感情大爆発)」が生き残っとるとは思わなかったが。でもなんか大声で怒鳴るばっかの演技だけじゃなくなって良かったな……。
・囚われの如恵留さまのくだりはごちそうさまでした。
・「残虐王」としての伝説が息子らにいっこも伝わってないのはつまりそれと知るものを根絶やしにしてきたからでしょうなぁ。
・「血のつながり is 家族」という観念が気に入らない(ジャニーズファミリーの概念にも反するし)ので、宮近さん以外実子じゃなくて、長男宮近さんが生まれたときに心を入れ替えた朱雀がいろんなとこから戦災孤児を引き取って育てたとかなら良かったのにな~と思う。『2019』での宮近さんの主人公力爆高な「紅い翼」の技、あれって「朱雀(紅い鳥)」から来てるんじゃないんすかね。父の力を直系で受け継いでる的な。でも『2020』ではなくなっちゃったしもはや全員実子じゃなくていいや。
・カゲロウが朱雀を刺すくだりでどうしてもリカがコウイチを刺すくだりを思い出すんだけど、死すべき「旧き王」に引導を渡すのは「女」という構図、これもメタ的に、いつだってファンが古いアイドルを捨て(担降り)、新しいアイドルへと次々に流行を移していくということの戯画だったりするんでしょうかね。