王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

真空ホロウという3ピースロックバンドがいた

2012年6月2日 ◎「事件はそのとき起こった。」

 その頃の私といえば、『TIGER&BUNNY』の結末によって心に受けた傷が癒えず、バニーちゃんの幸せと不幸のことばかりを考えて日々を過ごしていた。あの作品においてバニーちゃんはどこまでも搾取される概念上の「少女」なのだ、という結論に達し、絶望した私は、駆け込み寺へ逃げ入るようにして、『不在の“少女”』表象を唄うバンド、アーバンギャルドのライヴに飛び込んだ。当時だいぶ情緒が不安定だったため、行ってどうするとかそういうことは念頭に無かった。
「病めるアイドルを探せ! ツアー」名古屋ell.fits all公演。3マンの対バンライブで、共演者の欄へ南波志保とともに名を連ねていたのが「真空ホロウ」だった。初めて見る名前だった。バンドなのかソロアーティストなのかもわからなかった。というか、開演直前まで対バン相手の存在すら忘れていたというのが正しい。
 真空ホロウの出番は2組目だった。照明の落とされたステージ。1組目の南波さんが退場し、セットを次の組のものへと転換する。事件はそのとき起こった。何者かが下手側のマイクスタンドにネックレスのようなものを、アクセサリースタンドへ飾るようにそっとかけていくところが見えたのだ。客席上手サイドから対角線に捉えたそのシーンは、異様に儀式めいた、非日常のものに感じられた。思えばこの瞬間から私は「真空ホロウ」の世界――異界へと引き込まれていたのだと思う。
 物々しいSEとともにそのバンドは登場した。奥にドラム。下手にギター。上手にベースが立つ、あまり見ない陣形だ。出囃子のBGMが止まり、一曲目が始まる。
 セットリスト一曲目『サイレン』のイントロが始まった瞬間に、「これはただ事ではない」と思った。早回しのビデオが映す夜明けのような、薄闇に強い光が射すような、まさに開幕というようなイントロからいきなりサビで始まるその曲で、あっという間に世界が切り替わったのだ。
 演奏がいい。曲がいい。ボーカルの歌声がすこぶるいい。ていうかめちゃくちゃ歌が上手い。なんだこれは。なにが起きているんだ。
 ただただ圧倒される中、一曲目を終えたあとのボーカルが、畳みかけるようにこう言った。
「“真空ホロウ”へようこそ。」
 
 この日から、彼らを追いかけるためにライブハウス通いを始めることになるわけだが、あの時ほどの鮮烈な「出会い」の感覚はただの一度を除いて、得られることはなかった。

「かわいい」バンド

 真空ホロウはすごかった。キャッチーな王道ロックを開幕で披露したあと、2曲目はいっそおどおどろしいほど淫靡で妖艶な表情を見せた。肌をヒリつかせるような社会的メッセージ性の強い楽曲もあった。皮肉めいた言葉回しの、都会を感じさせるポップな曲調のものも。総じてメロがいいし、それを歌いあげるボーカルが圧倒的に上手い。ベース、ドラムスを合わせたバンドとしての音もかっちりとキマっている。なにより私は下手サイドで歌っているギターボーカル・松本明人の佇まいに――その姿がまとう空気感、キャラクターに、釘付けになっていた。マイクスタンドにぶら下げた謎のアイテム(のちに懐中時計であると知る)、歌っているときの表情、身振り、足運び。どれをとっても私を惹きつけてやまない魔術的な魅力をもっていた。喩えるならば、そう、百年の眠りから覚めた吸血鬼みたいに。
 
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 さらにもう一点、外せないポイントが、曲間のMC――もとい、MC担当のベーシスト、村田智史の存在である。彼はとても訛っていた。初見時にはなんとなく北関東のほうの訛りであることしかわからなかったが、とにかくものすごく訛っていた。訛り全開で、気さくな魚屋の兄ちゃんのようにわーっと客席へ語りかける。作り込まれた楽曲の空気が、彼の先導するMCに入った瞬間、色んな意味でブチ壊されるのだ。その強烈なギャップに、おそらくその殆どがアーバンギャルドのファンで構成されていたであろうフロアからはどよめきとゆるい笑いが巻き起こった。
 彼はそのとき、スタジオジブリのアニメ映画『魔女の宅急便』の黒猫ジジの顔型ポシェットを腰に提げ、客席に向かって「これ、かわいいっぺ?」と得意げに話し、女性「かわいい~~!」とレスポンスしてもらって満足そうにしていた。さらに彼は背後に積み上げたアンプ等の機材の上にジジのぬいぐるみを置いていた。ライブの際は常に置いているらしい。この種類の「かわいい」を明確に、意識的に打ち出して、売りにしているということがわかる。それが「女子にウケる」ということを知っているのだ。そんなMC中のやりとりの間も、ボーカルの彼はずっと腕を組み顎に手を当てたポーズで静かに佇んでいた。
 
 すべての演奏を終えて真空ホロウがステージから去ったあと、私は興奮を抑えられずすぐさまケータイを開いて(ガラケーの時代である)インターネッツで情報を検索した。
 2006年、茨城県で、ギターボーカルの松本明人を中心に結成。ボーカルの地元鹿島と水戸のライブハウスを中心に活動し、2009年のRock'n Japan 主催のコンテスト RO69 Jackで入賞。全国流通のミニアルバム『Contradicthion of green forest』をリリースした。翌2010年には結成当初からのメンバーであるドラマー山本ワタルが脱退。入れ替わりに同郷・水戸のドラマー大貫朋也を迎えて、ディズニーのコンピレーションアルバム『ロック・スティッチ』に参加し、2ndミニアルバム『ストレンジャー』をリリース。2012年時点での最新盤はタワレコ限定発売の『Slow and steady』……――。
 物販で買えるだけの音源とグッズを購入し、その翌日タワレコに駆け込んで限定音源を手に入れたのは言うまでもない。

「歌が上手いんだから、ちゃんと歌いなさい」

 インターネッツは情報の宝庫だ。衝撃の出会いからしばらく、Webで情報を漁る日々が続いた。メンバーのブログに、ロッキン主催コンテストの映像、旧譜のMVなどを次々に見ていき、やがてひとつのコンテンツにたどり着く。現在は別サービスとなった(初期の形式は完全にサービス終了した)ライブ配信プラットフォーム「Ustream」で、現在活動休止中の先輩バンドJeeptaが行っていた定期配信番組「Jeeptaism(ジプタイズム)」である。
 2010年、この配信番組にゲストとして登場した真空ホロウメンバーの村田・松本両名は、登場した瞬間から退場までずっと様子がおかしかった。ライヴのMC時と変わらず、勢いまかせで訛ったまんましゃべり倒す村田氏に、言葉数少なく、話すときも一言ひとこと入念に吟味しているのか、独特の間をもうけながらぽつぽつと語る松本氏。二人の自由なふるまいはJeeptaのメンバーをおおいに困惑させ、同時に笑わせていた。告知をするときは松本氏が村田氏により正確な日程などの情報を耳打ちし、村田氏は松本氏の足りない声量と言葉を補って伝えなおす。松本氏は村田氏の「カンニングペーパー」であり、村田氏は松本氏が外界と接するための「通訳」の役割を果たしていたのだ。
 完璧だ、と思った。通訳とカンペの関係。お互いの不足を補い合いながら存在している。それは完璧な循環であり、たった二人だけに通じている世界であった。いびつでありながら、美しい世界だ、と思った。
 この二人組への特別な感慨は、あるインタビュー記事を読んで完成形となる。

――結成当初と今とやってる音楽は違ったりする?
松本「最初のメンバーチェンジで一気に変わりましたね。その時に、それまでの曲は全て捨てました
――え、どうして?
松本「よく人から言われるんですけど、何でもやり過ぎてしまうところがあって。例えば、何かの達成のために願掛けみたいにやろうと思ったら、物を食べないとか寝ないとか、達成するまで突き詰めてしまう習性があって。今はメンバーが注意してくれますけどね。それで、その時は心機一転だと思って全部捨てました」
――“昔の彼女のものは全部捨てる!”みたいな感覚ですね。
松本「そうですね。それから新しく作っていったんですけど、それはベースの彼の一声がキッカケにもなってます
――どんな一声だった?
村田智史(Ba.)「『歌が上手いんだから、なんで歌わないの?』って。僕がバンドに入る前に、ライブで彼(松本)を見たことがあったんですけど、例えば30分で5、6曲やるとしたら2曲も見れないステージで。なんか“ワーギャー”とか“ワキャー”とか『何を言ってるんだお前は?』って音楽だった(笑)。でもいい部分もあったから『もったいねえな、ははぁーん』ってその時は思って、後ろの方でお酒を飲んでましたね(笑)。まさか一緒にやるなんてその時は一瞬たりとも思わなかったけど、やることになった時に、『 歌をうたいなさい!』って言ったんですよ
 
『TANK! the WEB 真空ホロウ インタビュー!』(2023年現在削除済)より。※強調部は筆者によるもの

 ベースの村田氏はいわゆる「オリジナルメンバー」ではない。最初期のベーシストがごく短期で脱退したのち、次が決まるまでの穴埋めとしてしばらくの間サポートを務めるも、なんやかんやでなし崩し的にそのまま正式メンバーに、という経緯で加入している。そんな彼が影響力を持ったのはひとえに、大人しい気質のオリジナルメンバーを引っ張れる年上の兄貴的存在であった点、そして上記のインタビューに現れているように、バンドの方向性を定めるプロデュース力の確かさゆえだろう。村田氏の指摘によって松本氏は表現方法をがらっと変え、彼の音楽のルーツにより近い、シンプルな(誤魔化しの効かない)歌唱力がものをいう歌謡ロックへと方向転換した。それが今現在の我々が知る「真空ホロウ・松本明人の歌」なのである。
 ――真空ホロウの歴史上の大きな転換といえば2015年を挙げることが多いだろう。筆者自身も直感に従えばその年の夏を境に「新体制/旧体制」と分類する。しかし、「真空ホロウの音楽性」に限って言うならば、本来の区切りはさきのインタビューで「それまでの曲は全て捨てました」と語られた前後、つまり「Ba.村田智史の加入後/前」なのだ。2008年~2015年の楽曲は、その後も継続して歌われ続けていたのだから。

 話を戻そう。
 購入した音源を聴き込み、バンドについての情報を仕入れる中で、私はひとつの結論に達していた。「このバンドをもう一度ライヴ会場で観たい――否、観なければならない」
 幸いにも、8月の地元名古屋開催のライヴイベント「TREASURE 05X」への参加が告知された。もともとその日に予定されていたゼミ友との飲みの約束を振り替えてもらうという暴挙に出てまで(その節は真に申し訳ありませんでした)、私は真空ホロウのライヴに再び足を運ぶことを決めたのだった。
「TREASURE 05X」の前週、彼らの故郷・茨城で行われた「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2012」にて、真空ホロウはSONY系レーベル・エピックレコードジャパンからメジャーデビューすることを発表した。つまり、本当に勢いのあるときに、私は彼らに出会うことができたのだ。得難い僥倖であった。
 デビュー発表直後の現場だったトレジャー。名古屋ell.fits allは凄まじい熱気に包まれていた。2カ月前の初対面時には挨拶以外ただの一言も発さず無口無表情キャラの権化のようだった松本氏が、ふつーにMCで喋っていて衝撃を受けたこともまざまざと覚えている。同じ会場で出番が前後だったあのJeeptaとの愉快なやりとりも。
 そして、私のもとには妖精が舞い降りてきた。
 

 夢見心地で帰路につき、「次も絶対行こう」と思った。
 

メジャー活動期を駆け抜ける

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 10月、メジャー1stミニアルバム『小さな世界』がリリースされた。ジャケット・アートワークには写真家・青山裕企氏の作品が起用され、アーティスト写真も氏による撮影となった。青山氏の仕事への個人的な好みはともかくとして、「お金がかかっている!」と思った。きちんとお金をかけてプロデュースされていることがわかって嬉しかったのだ。MVも良かった。デビュー曲MVでぬっ殺されるバンドマン、縁起でもなさすぎて最高だろ。
 リリースに合わせるように、Ba.村田氏は九州地方のラジオ番組を開始し、翌2013年からはなんと我が地元である東海地方のラジオ局ZIP-FMでレギュラー番組を持つこととなった。そのおかげなのか、真空ホロウは関東拠点のバンドでありながらかなり頻繁に(多いときは月に3回も!)我が地元名古屋でライヴするようになった。毎週水曜23:30。週の真ん中、折り返し地点におかれたラジオ番組が、2015年夏までの私の生活のリズムを作っていた。
 2013年リリースの2ndミニアルバム『少年A』も作品として大変おもしろかった。収録曲群を「ある少年の物語」としてひとつのストーリーになるよう構成し、そのストーリーをとあるフリーペーパー上で小説『少年Aの物語り』(※原文ママ)として連載したのだ。世界観をより深く感じられるように、音楽以外の媒体でも作品を展開し始めたのである(この多角的メディア展開は、2015年以降さらに広がっていく)
 

この写真は「撮影・SNS拡散可」となっていた『少年A』リリース記念ラジオ公開収録の際に撮影したいちばんいい写真です

 2014年リリースの1stシングル『虹』は初の大型タイアップで、TVアニメ『NARUTO~疾風伝~』のEDになった。発売後にはタワレコだけでなくアニメイトへ赴き、二次元オタクとしての自分が過ごす場で推しバンドの音源が買えることを実感して密かにニヤついたし、NARUTO好きな従姉妹にアニメジャケット盤をプレゼントした。同年1月から開始したcross fmのラジオ番組「RADIO◎CONNECTER」内のワンコーナー「眉唾マテリアル」は、松本氏の頭の中を覗き見るような独特のノリが面白く、果ては公開イベントにまで発展し、同番組別コーナーを担当する元椿屋四重奏中田裕二、そしてあの及川光博と共演するに至った。あんなカオス企画は人生がこの先30年続いてもなかなかお目にかかれないだろう。最高だった。
 そんな感じで、真空ホロウは地上波TVに出演することはほぼなかったものの、ニコニコ生放送の音楽番組「ロック兄弟」へはリリースのたびに出演していたし、毎週水曜のラジオとゲストラジオ、バンドと松本氏ソロの現場とで、私は本当に充実していた。北は仙台、南は博多まで出かけて行った。真空ホロウと松本氏は何度見ても面白さが変わらず、楽しく、美しかった。きっとこのまま10年、20年、飽くことはないだろうと思った。
(余談だが、オタクメンタル全開時の私が松本氏のことを「様」と尊称(愛称)するのは、ラジオ番組「R◎C」にて、番組ディレクターの相越氏から「明人様」と呼び親しまれていたことに由来している)

 2015年、待望のフルアルバム発売の報せが入った。これまで発売してきたのは5~6曲入りのミニアルバムかシングルで、フルアルバムは初めてのリリースだったのだ。短編小説のような、少ないページでカミソリのような切れ味を誇る作品も好きだが、重厚な長編小説も読んでみたい。そんな気持ちでリリース情報を楽しみにしていた。ところが、収録内容が発表されると、全12曲中に新曲は6曲、7曲が既出という構成になっていた。うち1曲はDr.大貫氏が加入する前のインディーズ盤『Contradiction of green forest』収録の『被害妄想〜』を大貫氏Drumsで新録したものなので納得できるが、他はこれまでのメジャー盤から2曲ずつの再録。アルバムタイトルがバンド名『真空ホロウ』であることもあいまって、1stにして「ベストアルバム」の様相であった。既出盤からの再録はあっても1曲ずつ、を想定していた私は、おや? と思うも、その時差し込めた違和感について深く考えることはしなかった。
 4月のアルバムリリースに先駆けて、3月に新曲を初演奏する「先行お披露目会」を称するライブが、まさかの地元名古屋で開催されることになった。「新曲は予習せずライヴ会場で初めて聴くのが一番いい」と思っている私は、あえてレーベルのWEBページで公開されていた試聴音源等は一切聞かずに、まっさらな状態でライヴ当日を迎えた。
 初めて『こどものくに』という曲を聴いたときのことは今でも鮮明に思い出せる。セットリスト中盤、深遠から響くディストーションのギターリフに、靄がかった加工のボーカル、ぐっと抑えたリズム隊と地を這うようなメロディーで焦らしに焦らしたのちサビで一気に開放されて突き抜ける。APOLLO BASEの柱の横でぽかんと口をあいて棒立ちで轟音に揺さぶられながら、「私はずっとこれが見たかったのだ」と思った。初めて真空ホロウと出会った2012年6月と同じだけの衝撃と、それを凌駕する高揚がそこにはあった。3年近く追ってきて、今日のこの日にこの曲を聴けた自分は、世界で一番幸せな人間なのだと、心の底から思った。そして同時に恐ろしくなった。これ以上のエモ(当時はまだそんなスラングはなかった)を今後わたしは得られるのだろうか? ――これは真空ホロウを追ってきて初めての感慨だった。「最高」に達してしまったら、そのあとはどうなる? 
 しかし、6月からのアルバムひっさげワンマンツアーはもちろん、2014年頃から増えてきた松本氏ソロ名義の対バン公演に、毎年出演の夏フェスや、恒例となったメンバー村田氏の誕生日企画も控えている。お楽しみはまだまだ沢山あった。彼らならきっとこの「最高」をも越えてくるはずだ、とその時はまだ信じていた。
 

2015年7月1日 ●「昨日には戻れないから」

 その日は東京遠征だった。真空ホロウが上京当初から世話になっているという渋谷のライブハウス「乙(キノト)」で、松本氏と友人のcinema staff飯田瑞規氏によるソロ弾き語り企画だ。私は仕事を早引けして新幹線に乗り、開演ギリギリで会場入りする予定だった。
 ちょうど昼休みに入ったときだ。ケータイを開くと、母親から「知ってたの?」というメールが届いていた。なんのこっちゃ、と思ったが、そのひとつ前の受信欄をみて「大切なお知らせ」のメールが真空FCから届いていたことに気づいた。ツアー最終日をもってリズム隊の2人が脱退し、「真空ホロウ」が松本氏個人プロジェクトになる、という報せだった。ようするに――脱退を称する事実上の「解散」である。
 急。というのが最初の感想だった。しかし、なんとなく思い当たる節はあった。「お知らせ」の数日前に、8月のBa.村田氏誕生日企画のチケット当落発表が遅れるというメールが入っていたのだ。こんなことは前例がなかった。加えて1stフルアルバム『真空ホロウ』の完全新規曲の少なさである。あのときの違和感は、つまり‟こういうこと”だったのではないか、と。
 なぜか母のほうが慌てていたため逆に冷静になれたのか、「‟ボーカル以外全員脱退”(日本以外全部沈没)の歴史に新たな1ページが刻まれた」などとぼんやり考えながら午後の仕事を淡々と終えた記憶がある。
 これまでの経験から「バンドは急に解散するもの、ゲーム会社の社員は急に退職するもの、推しCPは別れるもの」と思っていたし、「生きてさえいれば、カップルはごく稀にヨリを戻すし、退職後の社員もたまに曲提供してくれるし、バンドは10年後くらいに再結成するかもしれない」そんな諦念と楽観が人生のクセのようなものになっていた。
 そうして迎えたキノト公演、松本氏はセットリスト1曲目に『開戦前夜』を歌った。

昨日には戻れないから
  (中略)
僕ひとりだけになって 手も繋げない この絶望に
今日の僕はなんて言うんだろう
真空ホロウ「開戦前夜」の歌詞 / 歌詞検索サービス「歌ネット」

「流石」の一言であった。この曲が最新にして待望のフルアルバム(ほとんどベストアルバム)である『真空ホロウ』収録の1曲目であり、2015年7月1日に歌われたこと。旅立ちの不安とそれでも歩き出す希望を歌った(松本氏が17歳の頃、故郷の町の市町村合併の式典に際し制作したという)真空にしては珍しいただただ爽やかなタイプの楽曲が、「6月30日には戻れない7月1日」の曲へと姿を変えたのだ。このあまりにも鮮やかな演出で私は「納得」して――させられてしまった。昨日には戻れないのだ。そして、それは決してマイナスではないのだ。
 私は予定になかった大阪公演のチケットをその場で手配した。客として東名阪ツアーを敢行するのは初めてだった。7月5日から18日までの2週間は怒涛の勢いで過ぎて行った。どの公演もいつも通りに楽しかった。
 7月18日、ツアーファイナルはやはり雨だった。当時の真空ホロウは「雨バンド」を自称するほど現場に雨を呼んでいて、台風の季節でもないのに記録的豪雨となることもしばしばであった。ライブ会場である東京キネマ倶楽部前には傘をさしたファンが列をなした。
 キネマ倶楽部はキャバレークラブを居抜きしたライブハウスで、独特の装飾がステージに残っており、当時の真空ホロウにすこぶる似合っていた。メンバーは下手側の赤い幕のある入口から登場し、階段を降りてメインステージに立った。上手にBa.村田氏、中央奥のDr.大貫氏、下手側の松本氏という構図を見るのも最後である。開演前は純粋に楽しみだったが、このときは流石にエモの雨に打たれていた。
 ライブはいつも通り楽しく、いつも以上に温かかった。
 公演の終わり、村田氏と大貫氏は、出てきたときと同じように階段を使い赤い幕の裏へと去っていった。松本氏は改めて挨拶したのち、階段ではない下手の出入口から退場した。二手に分かれた道がそこには明示されているように思えた。
 そして私はあの日、折り畳み傘を失くした。出入り口から客席まで2周して、スタッフにも問い合わせたが見つからなかった。終演後に雨はあがっていたから、濡れずに帰ることができた。何もかもが象徴的にすぎて我が記憶を疑いそうになるが、事実、そうなのだった。
「宇宙一好きなバンド」はその日なくなった、が、「宇宙一好きなシンガーソングライター」は、歌い続けることが約束されている。
 もう、それだけで良かった。
 
 

ソロプロジェクト、そして

 2015年夏、「真空ホロウ」は松本氏のソロプロジェクトとして活動を始めた。メンバー脱退の翌8月、当初より予定されていた「ロッキン」こと「ROCK IN JAPAN FES2015」には、Bass、Drums、Guiterに知り合いの先輩・後輩バンド(a flood og circle、Pepple in the Box、指先ノハク)からサポートメンバーを呼んでの出演となった。その選出には多分に、それぞれのバンドのファンからの集客も見込まれていただろう。(同8月に予定され、チケットの当落発表を‟延期”していた村田氏の誕生日公演はもちろん中止であった。概ねのことを受け入れ体勢だった私だが、これだけは未だに引きずる禍根である。)
 ロッキン運営は、8月1日のWOWOWでの生中継プログラムのゲストトーク枠に真空ホロウの出番を組み込んでいた。ソロプロジェクトになったばかりの彼に、そのことについてファン以外にも広く報告・説明する場を設けてくれたのだ。
 この年をもって「育ての親」であるロッキンから巣立ったのだろう。2009年のロッキン主催オーディション「RO69JACK」以降ずっとフェスに出続けていた真空ホロウは、2015年末から今日に至るまで「RIJF」にも年末の「COUNT DOWN JAPAN」にも出演していない。
 
 夏以降も真空ホロウは動きを止めなかった。とはいえ、主な活動はアコースティックギターの弾き語り公演となり、さらに私は8月中に確保している現場がもともとなかったため、ソロプロジェクト最初期のサポート入りバンド体制はほとんど知らない。9月は地元の友人でもある石崎ひゅーいとの弾き語り対バンツアー、10月は初のファンクラブイベント、11月も弾き語り公演ときて、バンドセットでの公演は12月まで間を置くこととなる。ドラム、ベースはその時々でサポートメンバーを変え、ときにはキーボードのメンバーも加わって、次に進むべき方向を模索しているようだった。
 ソロプロジェクト期の最初のリリースは、11月の自主企画「真空歩廊展」で発売した弾き語りシングル『Torch.』だった。このシリーズは2021年の『Torch.7』までナンバリングのリリースが続くことになる。
 さて、この『Torch.』なのだが、ジャケットがめちゃくちゃ可愛い。マジで可愛い。ほんまに可愛い。これまでありそうでなかった、松本氏その人がどどんと表に出たジャケットである(フルアルバム『真空ホロウ』のジャケにもいるっちゃいるが、ものすごくモザイクでジャキジャキいている) アコースティックギターを松明(Torch)のように掲げる表面も楽曲の演奏に使われた楽器類(“本人”からおはじきの袋まで)並べた裏面も全部イイ。しかもこの最高アートワークが松本氏自身の手によるものなのだというからたまらなかった。作詞作曲演奏もしてジャケデザインまで完璧にやっちゃう推し、すごくね? 『Torch.』の話するとき音楽の話だってしたいのにジャケが最高すぎてマジでめちゃくちゃ興奮したことしか語れないんだけどジャケについて他で語るタイミングも逃しているのでここで書き散らかさせてほしい。最高なんですよトーチのジャケは。現場で出会った初対面のブラスタ民にオススメ紹介するとき「ここでしか買えないしジャケが可愛いので!!」しか言えなかったくらいには。今からでも遅くないからでかく印刷したレコード盤も出してほしい。でかい『Torch.』のジャケ欲しい。私は本気です。
 満足したので音楽の話します。
『Torch.』収録1曲目、真空歩廊展でもセットリストの一番目に演奏された「矯正視力」で、松本氏はループボックスを駆使していくつもの音を重ね合わせ、複数種のパーカッション、ベース、ギター、ボーカルパートをこなしていた。たった一人でいったい何処までやれるのか、人体ひとつで奏でられる音楽の限界を見せつけるように。久しぶりのワンマン公演で、まずその気迫に圧倒された。曲自体も、爽やかなアコースティック弾き語り曲でありながら、一筋縄ではいかないテーマ(自身が視力を失ったとしたらどう生きるか)を持っていて、真空ホロウという世界の確かさを感じた。『Highway~』しかり『開戦前夜』しかり、門出の曲はいつもこのようにある。『ゲシュタルト』はドラマチックなバラードで、特に2コーラス目のサビの歌詞がいい。
 そしてもう1曲『ひかりのうた』。旧体制最後のツアー中に新曲としてソロ弾き語りver.で歌われ、どんどん歌詞がかたちを変えていった楽曲だ。あのツアーには、長いながいサブタイトルがついていた。「回想列車で全国へ ~嘘です本当は機材車です~」という。「嘘」――夢であるところの「回想列車」と「本当」――現実であるところの「機材車」の対比。この『Torch.』リリース版の歌詞に登場する「信号待ちの四角い空」は、機材車の車窓からの風景であろうことが窺える。我々は機材車という現実に乗ってソロプロジェクトの真空ホロウを見ているが、並んだレールの違う夢(うそ)の世界――回想列車に乗ったままいることも許されている、そう感じた。それが彼らのやさしさだったのだ、と。
 ソロプロジェクトとしての「真空ホロウ=松本明人」期は、私の中でそんな風に始まった。
 
 この頃は先にあげた石崎ひゅーい氏を始めとし、Rhythmic Toy Wolrdの内田氏や、共作することになるCIVILIANのコヤマ氏、ユニット「健康」を結成するlynch.の悠介氏など、後々も深く関わることになるバンド仲間との交友関係を強く意識する期間だった。ツイキャスLINE LIVEでの定期的な生配信もこの頃から始まった。PC画面上の編集ソフトの波形だけを映した作業配信に始まって、やがて雑談やリクエストソング企画も開催される癒しの時間となった。
 そしてこの時期といえば、松本氏の「儚さ」が尋常でない期間でもあった。RTWの内田氏もMCで「ほっておけない」「ひとりで居たら消えちゃいそう」という風に語っていて「俺みたいにこじれたオタクならともかく親しいバンド仲間でもそう思うんですか?!」と動揺した。桜の季節に鶴舞公園で開催された野外フリーライブの思い出も鮮烈だ。春の空気の中にそのままほろほろと融けていくような存在感だった。現場を共にした旧友には「桜に攫われるというよりは、樹齢1000年の桜の木に棲んでて人を攫う怪異のほう」と評され、「それはそれでめっちゃわかる」と思ったけども。
 ……これは今となっては笑い話というか、自分でも気が確かでない状態だったとは思うのだが――この頃のわたしはといえば「松本氏が28歳を無事に終えられるか問題」をわりと結構まじめに本気で心配していた。とある二次元の推しが28歳で没していたことと「ロックスター27歳死亡説」のハイブリッドで、そのように思い込んでいたのだと思う。
 まぁ、そんな謎の心配をよそに、2016年の誕生日を過ぎても松本氏は桜に攫われるどころかピンピンしていた。私は心底安堵したのだった。
 

「結局」の話

 ソロ期の記憶の中でとくに印象的なエピソードがある。氏が28歳を乗り越えた2016年10月18日、前年の初開催以降ほぼ恒例となった松本氏の誕生日企画公演、終盤のMCで語られたものだ。
 真空のマネージャー氏が、新曲『復讐』を事務所のスタッフに聞かせたとき、スタッフさんから「新曲、いつもと雰囲気違ったね」と感想をもらい、それに「タイトルは『復讐』です」と返したところ、「結局?!」と驚かれたのだという。
「結局」には「成れの果て」「とどのつまり」などの意味もあり、あまりポジティブではない用法が多い。だが、私はこの「結局」の話を聞いたときひどく感心した。「全くその通りだ」と思ったのだ。『復讐』は、確かにこれまでの真空らしいギターロックテイストと違い、シンセ音源もふんだんに用いられたポップでアッパーな印象を受けるデジタルサウンドの楽曲になっている。しかし、どんなに曲調が変わり、サウンドの雰囲気が変わっても、作中に描かれるシーンやモチーフが「悪魔の森」から近所のコンビニのような日常的なものになっても、根底にあるのは人間のほの暗い感情や一筋縄ではいかないこじれた関係性、「愛」のすぐ隣に「死」が置かれること、そして社会への投げかけである。地元の大先輩バンドMUCCにも「出身バンドはだいたい暗い」と言われている、アレである。
『復讐』というタイトルは後述のアルバムで『「夜明け、君は」』へと改題されるが、大筋のテーマは変わらず、リライトされた歌詞も新旧ともに「復讐を誓うよ」の一文で結ばれる。ソロプロジェクトになる前も、思いのほか短かったソロ期もその後も、真空ホロウは一貫して、ぶれない芯を保ち続けていた。「結局」という言葉は、それを端的に表していた。
 
 どこまでいってもこの「‟結局”のところ」が変わらなければ、私は真空ホロウを愛することになるだろう。そう確信できた瞬間だった。
 
 

「“女性向け”ロックバンド」

 2017年3月、1年ほどサポートをしてくれていた高原未奈先生(ベース講師をしていたため「先生」と呼ばれていた)を正式にメンバーとして迎え、「真空ホロウ」はソロプロジェクトから再びバンドとなった。そして5月にはアルバム『いっそやみさえうけいれて』がリリースされた。
 
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 このアルバムは、上記MVのように友人バンドマン・コヤマヒデカズ(CIVILIAN)との完全共作曲や、アーバンギャルド松永天馬が作詞しゲストボーカルにUCARY&VALENTINEを迎え、イトヲカシの伊藤歌詞太郎は1曲まるごと提供という形で参加している。ほぼバンドだけで完結していたこれまでの真空からすると異色のアルバムだ。真空ホロウの世界が横に拡がり、これまでになかった「幅」を持ったのだ。このリリースに合わせフリーペーパー上で楽曲を補間する小説も連載された。『少年A』の時と同じ、多角的メディアでより作品を深める試みだ。馴染みの手法と新しい試みが並行して展開され、わたしは素直にそれらを楽しんだ。高原先生は「明るすぎず、暗すぎない」と松本氏に評された性格そのままに、落ち着いたフラットな態度と抜群の技術で真空ホロウを支えてくれていた。待望のLIVE DVDも制作された。(あんなにもヴィジュアルで訴えかける力を持っていながら、旧体制時には公演の映像を一度も販売しなかったのだ。遺憾である)当面はこの2人でやっていくのだろうと思った。
 が、この「2人体制」はソロ期よりもっと短かった。同年10月、真空ホロウはこれまで何度もサポートメンバーとして参加していたドラマーのMIZUKI氏の正式加入を発表し、それに合わせて新曲のリリックビデオをアップする。
 
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 [2018年の買ってよかった音源記事]でも書いたが、この2017年が(私の知る)真空ホロウ第二の転換期であった。ロゴやヴィジュアルイメージを一新し、松本明人はTwitterInstagramのアカウントIDを「よりわかりやすいもの」に変えた。バンドのプロフィールに添えられるコピーも「日常の違和感~」や「鬱と狂気とロックンロール」から「女性リスナーの共感を呼ぶ〜」のようなテイストに変わった。そして、3人体制になったことを広報する2018年を挟んで翌々年の2019年には、Instagram等で活動する漫画家のごめん氏がイラストワークを手掛け、作詞家の矢作綾香氏が全曲の作詞をしたアルバム『たやすくハッピーエンドなんかにするな』をリリースする。
 再び3ピースロックバンドとなった真空ホロウは、2015年夏までの3ピースロックバンド・真空ホロウとまったく違うかたちだったのだ。
 
 ヴィジュアル・コンセプト面の変化だけではない、もうひとつ特筆すべきは「女性向けロックバンド」を真っ向から名乗ったことだ。
 真空ホロウが「女性向け」に舵を切ったのは、第一にファン層がほぼ女性で占められていたことが大きいだろう、と私は見ている。自主企画やワンマンの会場を見回してみれば、フロアの過半数を女性が占め、物販に並んでいるのもほぼ女性。また、これはソロプロジェクトになってから可視化されたことだが、FCイベントの参加者も目視できる範囲9割9分が女性であった。「公平に厳正なる抽選が行われた」という前提で考えるなら、イベントに応募するほどのファンはほぼ女性だったということだ。
 しかし、それが意味するのは「これまでの真空ホロウ」でも女性客が付いていたのであり、むしろ「これまでの真空」にこそ、彼女らは惹きつけられていたのであり、つまり真空ホロウが「女性向け」であることは、2015年より前から変わらず、ずっと、継続している状態だった、ということなのである。
 大きな方針転換に、拒否反応を起こすファンはもちろん居た。直截に「きもちわるい」という呟きもツイッターランドで見た。
 そんな中で、私はとあるブログ記事を思い出した(現在非公開のため引用できず)。その記事ではロックバンドのファンがアイドルの現場に行って受けた衝撃のことが語られていた。ロックの現場では「正当な客として歓迎されている」と思えなかったブログ主が、韓流アイドルの現場――女性客でほぼ占められていて、パフォーマンスする側もそれを当然としている現場で、「歓迎されている/消費者として認められている」と安堵する。
 ロックバンドとジャニーズタレント(とその他色々)のオタクを掛け持ちしている私にもこの感覚は非常にわかるものだった。様々なフェスやサーキットイベント、対バン企画などに参加して、真空以外のバンドを見るときに感じる「あーうちらは客じゃねえやつだなここは」という感覚だ。
 その時期、とあるバンドが抽選参加式イベントで女性客のみを抽選から弾くという不正を行っていたことが発覚した件も話題になっていた。イベントの抽選から女性客を「弾かざるえなくなった」大元の要因についても、「女は本来の客ではない」「男のみが真にバンドとその音楽を理解するファンである」というバンドの考え方が浮き彫りになっている事例だった。
 もちろん旧真空にしたって「男の人が(ライヴ動員に)増えてうれしい」というような主旨の発言をしていたし、その都度わたしは「チッ」と思っていた。それがたとえ「夫婦で楽しんでくれているみたいでうれしい」や「親子連れが来てくれてうれしい」と同列のものだったとしても、「女子供は客じゃない」というある種の文化が抱えがちなマッチョイズムを幻視してしまう。そしてげんなりする。
 これはロックの世界だけでなく、特撮や、映画や、漫画アニメなどのサブカルコンテンツのみにとどまらず、社会全体を取り巻いている女性蔑視的価値感がもつ問題だ。
 真空ホロウはそんな中で、「女性向けロックバンド」として打って出たのだ。私はそれを面白く感じた。まずコラボ相手も、作詞面のプロデュースも、バンドメンバーも女性で固めたことは正解だと思った。アートワークも、メジャー期の青山氏による制服少女を被写体としたサブでカルな写真から一転、コラボした女性漫画家による、意志をもった大人の女性のイラストレーションを用いている。どれも「やる」と決めたコンセプトから外していない、「わかっている」采配だった。
 2019年のアルバム『たやすく~』は「バンド外とのコラボ」「ストーリーを前提としている」という点で、前作『いっそ~』や、メジャー期の作品『少年A』の延長線上にある。コラボ対象を1人に絞ったことでより濃密に、真空ホロウとごめん氏の世界観を表現できているし、それは作詞家を矢作氏に統一したことも一因だ。これまでずっと真空の作詞をしていた松本氏の筆致には、――私はそれも含めてひとつの「作家性」として認識しているのだが――どうしても作品ごとに大きくムラが出てしまうところがあった。(『TOKYO BULE BUG』と『バタフライスクールエフェクト』が同じ人の手で書かれているのか?!)そこにライティングのプロである矢作氏の手が加わることで、作品のトーンがすっきりまとまって、聴きやすいアルバムになっていた。
 
 私は確かこれらの変化を驚いたが、同時にとても面白いと思った。以前と似たようなスタイルで同じことをするなら、実質解散した意味がない。ソロで同じことを続けていても意味がない。
 ここまで新しいアプローチができるなら、この路線でどこまでイケけるのかに私は興味があった。――そして「結局のところ」は変わらないだろう、という信頼があった。前述したように真空ホロウ最大の方針転換は「それまでの曲は全て捨てました」と語られたタイミングである。『たやすく~』にはごめんコラボ曲のほかに各メンバーの誕生日企画公演に合わせてグッズ特典となった3曲も収録されていた。そのうちの1曲『ドリップ』はソロ期から演奏されてきた楽曲で、『ストレンジャー』(2010年発売のミニアルバム)頃にはすでに存在していたという。つまり、音楽性は途切れてはおらず、ずっと続いているのだ。(この連続性を保ったまま「女性向け」のコピーを打って出すからにはもう二度と「男性客が増えて嬉しい」なんて言わさねえぞ、くらいのファイティンポーズな気持ちがなかったかというと嘘になるが)(そしてステージ上に女性メンバーが増えたことで逆に客席の男性率は上がっていたのだが)(このことについて記憶する限りではほぼ言及されなかった)
 
 ここで話は少し戻る。3人体制になった翌年、3人それぞれをフィーチャーした誕生日記念企画「真空パックvol.13-黄・赤・青 -真空ホロウ3ピースになったんで対バンしませんか2018-」が開催されることとなった。特別企画として各回でメンバー考案のオリジナルグッズを発売し、そのグッズに特典CDをつける(順序が逆だ小僧!)(4年ぶり3度目のツッコミ)という企画である。初回である黄色回、MIZUKI氏が北海道出身であるご縁から、北海道のゆるキャラジンギスカンのジンくん」と真空のコラボグッズが発売されることになったのだ。


 めちゃくちゃ可愛い。マジで可愛い。ほんまに可愛い。 この、サン○オコラボに匹敵する可愛さのグッズが推し盤のために発売されたのだ。これを最高と言わずになんと言う。(この6月の公演にはなんとジンくんのファンも参加していた。チケットもぎりの際「お目当てのバンドは?」に彼の人が「ジンくん」と答えたのか否かが今もずっと気になっている)
 どの公演も大事だが、やはりメンバーの誕生日記念公演はちょっと特別になるものだ。世界一可愛いグッズが生まれた黄色回も、待望の『ドリップ』音源発売があった8月の赤回もアツかったが、10月の青回はとりわけであった。セットリスト1曲目『The Small World』で幕を開けた時点でエモはピークに達していた。松本氏は「いつかこの歌を笑って歌えても」という歌詞を、ほんとうに笑みながら歌ったのだ。
 旧ホロウ時代に、印象的だったエピソートがある。松本氏と村田氏がゲスト出演したラジオ番組「モザイクナイト」で、「お互いを色に喩えたら何色になるか?」とリスナーに問われたときの会話だ。
 村田氏は松本氏をして「カメレオンカラー」と喩えた。「色々なことに興味を持ち、どんどん色が変わっていくから。彼が一つの色に定まったときは、次のステップに進んだとき」なのだという。
『TSW』を聞きながら、私はこのエピソードを思い出していた。そして「青色に定まったのだ」と思った。
 アイドルグループみたいにガチガチの設定で担当カラー別の衣装があるとか、そういうレベルでは無論ない。だが、「黄色が好き」というMIZUKI氏の加入でもって、真空ホロウに彩りが生まれた。その結果として世界一可愛いグッズと、グッズでも使われたそれぞれのカラーがテーマの公演が企画され、松本氏は「青」になった。青の名を冠した企画で「青い記憶」の唄を「笑って歌え」たのだ。
 変わっていくもの、変わらないもの、どちらも等しく、美しいと思った。
 いつの間にか旧体制を追っていた期間よりもソロ期~新体制期のほうが長くなっていた2018年は、そのようにして暮れていった。
 

脱退と疫病と配信と

 2017年からの新体制での活動を順調に進め、新たなテーマ性でもって手堅く仕上げたアルバムもリリースした2019年は、意外な結末を迎えた。高原先生の年内脱退が11月に告知されたのだ。
『たやすく~』は1枚目にして3Pロックバンドとしての新ホロウの「集大成」の作品となってしまった。サポート期から数えれば2019年から4年間。先生のベースはまさしく堅実な土台(ベース)として、新ホロウのサウンドを支えてくれていた。松本氏も率直に先生を惜しんでいたが、家庭の事情となればもうどうしようもないことだった。真空ホロウは(私の知り得る限りにおいて)通算5度目のメンバーチェンジを経て、ボーカルギター、ドラムスという2人編成のバンドとなった。
 もちろん、2人抜けても活動していた真空がここで歩みを止めるはずもなかった。翌年の年始から早速ツアーを開催。久々に披露する旧ホロウ時代からの楽曲を事前に募り、くじ引き形式でセットリストをライブ当日その場で決めるというなかなか過酷企画を敢行した。ツアーファイナルは2月末――ギリギリのタイミングだった。
 2020年春、疫病の影響下で次々とライブハウスの公演が延期になり、やがて中止になっていった。「あけおめツアー」まではかろうじてやりきった真空だったが、その他の予定されていた自主企画も、RTW内田氏とのユニット「シナプス」のツアーも、松本氏ソロの東京23区弾き語りツアーも、みんな幻に終わった。バンドのみならず舞台・コンサート・エンタメにかかわる誰もが苦しい状況だったはずだ。
 ライブ会場での公演ができない閉塞感の中、アーティストたちは次々とWEB配信公演を導入し始めた。インターネットでの商業展開に出遅れていたジャニーズ事務所でさえも、Youtubeや独自の動画配信サービスでもってライブ配信を開始したのだ。
 あの夏、真空はすべての工程を自宅で制作した初のデジタルシングル『KINDER ep』をリリースし、『おうちでたのしむ「真空ホロウ」』と題した配信ライブ(通称「おうちライブ」)を開催した。
 音源のマスタリングも松本氏が学び直して己の手で完成させたというシングル『KINDER ep』はナンバリングで4作目までリリースされる長期シリーズとなる。ソロ期から歌われていた、『マイムマイム』『満天の星』に加え、現代社会を生きる人々の生活に焦点を当てた『プリーズアップデート』はアルバム『たやすく~』をさらに発展させた作品だ。オール宅録ということもあってか、デジタルサウンドの色がより強くなっていて、翌年リリースのEPにもこの作風は続くことになる。
 また、松本氏は地元茨城のホームグラウンドであるライブ会場・水戸ライトハウスの支援活動である「ヒカリノハコ」プロジェクトに参加した。地元の先輩後輩が集い、力を合わせて作り上げた楽曲『命の灯』はただただ圧巻であった。(夏のリリース記念配信イベントでは、司会として参加した旧ホロウメンバーの村田氏と脱退後初の共演もあり、全俺をドギマギさせた)(「別に共演NGってわけじゃないんだけども笑」と後に語られていたが、本当に共演の場はこれくらいしか設けられなかった。謎である。)
 他にも、CIVILIANコヤマ氏、元キマグレンISEKI氏とのディスタンスを設けながらの実験的公演など、あの状況下でも趣向を凝らして、真空ホロウは音楽を続けた。先の見えない中でも、世界を愛せなくても進むこと、生きるということを、否応なしに考える期間になったのだろう。
 
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 掛け持ち中のアイドルの推しは、この期間中を留学先の海外で過ごし、帰国後にはグループ脱退の決意をゆるぎないものにしていた。家の中で、一人で、己を見つめ直す時間があるということは、つまり、そういうことなのだった。
 
 

2021年12月24日○「最終回かと思った。」

 2020年を越えて、バンドの15周年である2021年は怒涛の一言だった。3月から8月には毎月の配信リリースがあり、加えてスマホゲーム「ブラスタ」への参加、秋には新ユニット「健康」の発足もあった。キンダーとトーチが交互に毎月リリースされた期間は嬉しい反面、毎月来る燃料で情緒が忙しかった。『森に還る』『ホーム』の正規音源化はソロ期から待ち続けていた宿願であったし、ZIP-FMのイベントでただ一度だけ聴いた幻の楽曲『その光、手の中で』の新録リリースもあった。『もしもし』や『知らんけど』等の“今”だから出せた令和時代のニューアンセムも外せないし、どこか遠い場所の話をしていた松本氏が自分事として話しはじめたように思える『IKIRU』などの名曲も良かった。これらの楽曲についての詳細は当ブログの「今年買って良かった音源」記事でもとりあげているので、ここでは割愛する。
 とにかくこの年の真空は働き詰めだったのだ。上記の仕事をこなしながらYoutubeでの「おうちライブ」を定期的に開催し、下半期からはライブハウスでの公演にも戻り始めた。何よりの僥倖はライブハウスでの有観客公演のときでも同時にWEB配信をしてくれたことだ。諸般の事情で行動に制限のあった身としては「配信あり」の一文がなによりありがたいものだった。WEB配信をカウントするならば、最も多くの「現場」に参加したのが2021年~2022年の期間であった。
 そんな年の暮れ、松本氏は「KANZEN PLUGLESS LIVE」という、会場ではマイク等収音機材を一切通さない、生歌・生音のみの弾き語りライブを開催した。毎週木曜の定例LINE LIVEのEX公演ということで、この公演もWEB配信ありだった。小規模会場での生歌の迫力は並外れていて、その「圧倒的」な歌唱力を思う存分味わえる現場だった。そして、何だか異様にエモーショナルな現場だった。これまでの歩みに想いを馳せるようなセットリストに加えて、アンコールで披露された新曲『無限回廊――この曲が持つ尋常でないエモさがあまりにも「最終回」だった。それほどまでに迫真のライブだったのだ。
 しかし、この時の私は「タイトル回収回」(連載ものマンガや連続ドラマ・アニメでサブタイトルや作中キーワードに作品名そのものが登場すること)だと解釈した。この先の予定はまだまだあったからだ。しかし、改めて振り返るに、「タイトル回収回」は物語の折り返し~やや終盤戦に訪れることがほとんどである。無意識のうちに防衛本能が働いたのか、単なる思慮の浅さか、今となっては謎だが、この直観はやはり、当たってしまうのだった。
 
 翌2022年。真空ホロウは15周年という記念の年だった前年に疫病下で十分に活動できなかったことをして、15周年のやりなおしも込めて「15th Anniversary +1」という企画を発表した。2月から毎月、自主企画の「真空歩廊展」を開催するという、2021年のリリースラッシュに続くライブラッシュである。
 「15+1」はライブ会場での有観客開催だったが、すべての公演を前年と同じくツイキャス等で配信してくれた。金銭的にも物理的にも毎月の東京通いなんて不可能な地方民としては、やはりこの上ない有難さであった。
 この自主企画は基本的にはゲストを1名迎え、対バン形式で行われた。呼ばれるゲストはこれまで何度も世話になった馴染みのバンド仲間や先輩、後輩ばかりで、公演中に次回のゲストが発表されることもお楽しみのひとつになっていた。そして、これは完全に個人的な感慨であるのだが、2月の初回時からなんとなく「今日は2013年の頃っぽい」「今回は2014年だった」のように、選曲や歌うときの松本氏のまとう雰囲気に、(直接知っているのは2012年からだが)この15年あまりの氏の歩みのようなものが感じられたのだ。
 7月には「15+1」のラストを飾る公演として12月の東京キネマ倶楽部でのワンマンライブが発表された。キネマ倶楽部といえば2015年のツアーファイナルにして、旧体制ホロウのファイナルの地でもあった。おまけに、FC限定の来場特典は2012年リリースの『Slow and steady』の再録盤だという。10年前、私が真空を見知った年の盤だ。周年企画の締めくくりに相応しいエモの舞台が着々と整えられ、公演への期待は否応なしに高まっていた。
 また、これらの活動の裏でMIZUKI氏は新たに「Lonesome Blue」メンバーとしての活動を開始し、松本氏は昨年に引き続き「健康」やブラスタの現場でも精力的に活動していた。実験的でディープな音楽性の「健康」と、まったくの別界隈で新たな表現を見せてくれたブラスタ(まさか様がステージでダンサーと踊るなんて!)どちらもそれぞれ面白かったし、松本氏の中の世界がますます広がっていくのを感じていた。
 そんなある日、松本氏個人のYoutubeチャンネルにある動画が突然投稿された。
 
youtu.be 『水彩』はメジャーデビューよりも、RO69入賞よりも前、2007年に発売されたデモ音源『黒鏡』に収録された、いわゆる最初期の超レア音源である。
 この投稿を皮切りに、『終幕のパレード』に始まるCD音源化された楽曲や、リリースに至らないまでもライブで度々演奏されてきた楽曲、外部への提供曲、歌唱担当曲も含めた「ほぼ全曲」の動画が毎日ひとつずつ投稿されていった。また、動画投稿と同日に、松本氏はその楽曲のセルフライナーノーツのようなテキストを真空ホロウ公式WEBページのFCコンテンツで更新していった。長年のファンにも新規のファンにも嬉しい企画であったが、「急にどうした?」感は否めなかった。ただ15周年の記念の、単なる振り返りの企画として当時は処理したように思う。「ほぼ全曲」を通して、バンドでもバンド外でも、松本氏の仕事の「幅」の拡がりを如実に感じられたし、その曲を聴いた時々を思い出させて感慨に浸るに良い企画だった――。
 
 11月25日。「真空ホロウ活動終了」が通達された。
 私は「あぁ、あれ、本当に“最終回”だったんだなぁ」と思った。
 
youtu.be  

2023年2月18日○ 終幕。

 記念すべきワンマン公演の1週間前に告知された「活動終了」。「休止」でも「解散」でもない、バンドの「終了」である。
 思い出したのは2008年に活動終了した倉橋ヨエコの「廃業」だった。休止でも引退でもなく、業務としての「倉橋ヨエコ」の活動をすべて終えるということだ。幕引きの理由にも近しいものがあった。「これですべてを出し切ることができた」「最高傑作を作ってしまったから」――松本氏が活動終了を決めたのも「バンドとして表現できることをすべて全うした」からだという。メンバーそれぞれの音楽活動は継続する点では違っていたが「バンド・真空ホロウ」という「物語」が終了する、そのように受け止められた。(倉橋ヨエコのラストツアーのファイナルもキネマ倶楽部だったそうで、何かの縁を感じずにはいられない。)
 年始(年始ではない)恒例の音楽記事にも書いたように、「そりゃないぜベイベー!」とわずかにでも思っていたなら、落胆、悲しみ、怒り、その他あらゆる感情が噴き出していたところだろう。しかし、この10年間真空の音楽を傍らに生きて、沢山のものを貰ってきたと自覚する者としての率直な感慨は「それはそうかもしれんわな。」だった。バンド結成、ライヴ、コンテスト出場、入賞、リリース、メジャーデビュー、ラジオ、雑誌、TV、アニメ主題歌のタイアップ、脱退、ソロ、再始動、曲提供、配信リリース、別プロジェクト開始……その総てではないが、概ね全部を目の当たりにしてきた。叶わなかった目標も、想定外に舞い込んできたものもあっただろう。2021年からのリリースラッシュも2022年の企画ラッシュも、その間中ずっと平行していたバンド外活動を見ても、彼らの表現はより多彩に、広く、深くなっているのがわかった。「成熟した」と言い換えてもいい。「君みたいに・君のようになりたい」と歌い続けていた真空はいつからか「君は僕じゃない/僕は君じゃない」と歌いだし、「あなたと話したい」「あなたと生きていたい」と歌うようになった。「思春期を終える」と松本氏のメッセージにもあったように、少年は「こどものくに」を胸に抱きながら、しっかりと大人になっていたのだ。
 
 12月2日のキネマ倶楽部は晴れていた。
 
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 セットリスト1曲目は『回想列車』。あの日の列車が再びキネマの地に停車したのだ。私は2015年に夢想上の路線を走ることを許され、魂の半分をここに置いてきた、と長らく思っていた。真空ホロウのために再びキネマ倶楽部を訪れ、あの時分かたれた魂と再会したかのような気分であった。
 みんなだいすきライブの定番曲も、現場で披露する機会の少なかった配信リリース曲、新旧さまざまに織り交ぜたた公演だった。古くからの友人も、最近の仕事で新たに関係を築いた仲間もゲスト参加していて、彼の世界がぐっと広がったことも伝わる公演だった。私は満足していた。真空ホロウの現場で満足しないことは一度もなかったのだけども。
 
 ここ数年、私個人の中で、ほぼ同世代である松本氏のことを一種のロールモデルのように捉える感覚が育っていた。柔軟さと頑固さ(「結局」のところ)のバランス、未知の世界へも果敢に挑戦していく度胸への敬意。そして近年の作品群から「百年の眠りから覚めた吸血鬼」ではなく「同じ時代を共に生きている隣人」として見るような気持ちが強くなっていったのだ。「君のようになりたい」とはついぞ思わなかった、が、「あなたと生きていたい」という気持ちは確かにあった。より正確に言うならば「松本氏の歌が、私の人生の中に末永く在ってほしい」だろうか。そのためには、おたがいが健やかに、身を持ち崩さず在ることが必要だった。そこへ「健康」なる新ユニットが登場するのだから、松本氏は本当に「わかって」いるのだなぁと思うし、実際、彼自身がこの10年であからさまに健康になっていっているように、私には感じられていた。魔の28歳も乗り越えて、消え入りそうな瞬間なんてないくらいに。
 最終公演の直前、旧ホロウメンバー村田氏がパーソナリティを務めるラジオ番組に松本氏がゲスト出演した。「ヒカリノハコ」イベントから約3年、ラジオ番組に絞れば、実に7年ぶりの共演である。二人は今だから語れる、と2015年当時の話や、活動終了についての話をしてくれた。「だんだん人間になっていった。昔は蛇みたいだった。」「(バンドが)大切だからこそ、なあなあにしたくなかった」という松本氏の言葉、村田氏の「(真空に)少しでも影響を残せてたら」への「大きいですよ」という松本氏の答えで、私は胸がいっぱいになってしまった。「結局」私にとってそれがすべてだった。
 
 2月18日の最終公演のタイトルは「真空ホロウへようこそ。」だった。これぞまさしく、まさしく「タイトル回収」である。
 

(歴代メンバーより贈られし‟松”の盆栽)
 
 代官山UNITの地下会場に降り行く階段には、これまでの真空ホロウの写真が所狭しと展示された。「何もない回廊に絵を掛けていく」――バンド名の意味として語られていたそれを想起させる企画だった。壁一面に敷きつめられた写真。空っぽの回廊は真空の記憶でいっぱいになっていた。
 開演前の薄闇のステージにセッティングされたマイクスタンドには、あの懐中時計があった。思いのほか短かったソロ期の中、いつの間にか見なくなっていた光景、すべての始まりだった光景に、最後またまみえることができた。「わかっているなぁ」と思った。「特別な日」の演出を、彼らは間違えたことがなかった。
 
 個人的には、12月2日の「15+1」ファイナルこそが最終回で、この最終公演はそれ自体がファンサービスというか、「最終回後の後日譚」のように感じられた。真空ホロウを好きな人だけが集まった、アットホームな現場だった。松本氏にとって17年あまりの、私にとっては約10年の、人生のような公演だった。でも、思い出に浸るばかりと思いきや、ここへ来てまったく新しい音が鳴らされて、耳慣れたはずの曲がまったく新鮮に響いてきたり、手抜かりは一切ない公演だった。
 最後の曲『虹』の演奏を終え、ドラムセットに突っ伏したMIZUKI氏をみて、私が関わる中では一番長く務めてくれていたのが彼女だったことに思い当たった。とにかく明るい声で笑い、ときに鋭く松本氏の発言を斬ってくれる、なんとも頼りになるメンバーだった。
 松本氏は「終幕」の一言であっさりと幕を降ろした。すっきりした表情だったように思う。
 いつもの現場のように、私は満足していた。ただ、アンコールがなかったこと。アンコールでいつも新曲を披露していた真空ホロウのアンコールがなかったことだけは、やっぱり、ほんのすこし、寂しいと思った。
 真空の現場で宇宙初披露の最新曲を聴く瞬間が、この10年における私の、最も幸せな瞬間だったのだから。
 

「結局」のところ、

 この10年あまり、私にとって「真空ホロウ」は常に最高におもしろいコンテンツであり続けたのだった。
 私は毎週水曜の「ZIP ROCK RADIO」も、毎週金曜の「眉唾マテリアル」も毎週木曜のLINE LIVEも忘れないし、2012年の渋谷WWWがソールドからの無料全編配信してくれたことも、そのアンコールで様が歌った弾き語りの『回想列車』をずっとライブ帰りに聞いていたことも、夏コミとTREASUREが被って熟慮の結果、友人とビッグサイトから大須ELLにハシゴしたことも、初めて水戸ライトハウスで彼らを観て「このバンドが世界一かっこいい」と素面で思ったことも、なんか急に「JUNON」で連載が始まったときの驚きも、まっっっじで雨の現場が多かったことも、未だに1コーラスそらで歌える『茨城県民の歌』も、出演するたびに編成が変わっていた鬱フェスも、健康になる前のキキララ(闇)も、観客一同でメンバーをぐるっと取り囲んだ360°ライブも、グリーンバックに巻き込まれて消えたパクチーサラダも、恒例になったCD袋詰めするだけの内職配信も、ガンギマリの達磨も、
 土砂降りの久屋大通公園で歌った『その光~』も、鶴舞公園で花見しながら聴いた『サクラ・テンダー』も、歩廊展第一回の『ラビットホール』と誰もいない部屋も、笑いながら歌えた「青の日」の『The Small World』も、はなわのバックバンドとして立ったダイホのリハ時間にしれっとぶちかました『アナフィラ』も、クリスマスイブに聴いた最初で最後の生歌『無限回廊』も忘れない。
 真空ホロウという最高のバンドがいたことも、真空ホロウという最強のバンドがいたことも、忘れない。
 忘れられようがないのだ。
 
 なので、

(めっちゃ仏間だけど仏間しか置くとこなかったんだよな)
 
 
 このたび、まことに勝手ながら「真空館」を引き継ぐことと相成りました。嘘です。いや半分は本当です。貰ったから・・・館のシンボル・・・。
 つきましては、「真空ホロウ」の活動を出来る限りアーカイブすべく立ち上げた非公式・私設ファンサイト『真空保存』を本格始動いたします。
 過去コンテンツ、WEB記事、セットリスト、初期の配布デモ音源等の情報を募集しています。ご協力いただけますと幸いです。
 
(なぜか当たる気しかしなかった)(でも本当に当たったときは膝がカクついた)(こういう運命もあるのだなぁと思いつつ放置してた情報まとめtumblerが脳裏を過ったので運命の流れに従うことにしましたよ。何卒よろしくお願いいたします。)