王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

ハッピーエンドの先に何が見えるか ~梅田芸術劇場『Endless SHOCK』~

 その日、わたしは推しが出演するという『Endless SHOCK 2019』(以降『SHOCK』と表記)を見るためにJr.情報局へ加入した。

シンプルに事実を述べよう。全滅だった

 Jr.担(わたしは「担当」を自称しない立場であるが便宜上ここでは使用させていただく)とはかくも険しく多難な道のりであるか。らじらーの地元での公開収録も外し、サマパラへのチャンスはことごとく逃し、自らの得た正当なる権利はちからを発揮しなかった。「日本一とれないチケット」という二つ名をもつ公演であると後に知った。そりゃそうだ。天下の堂本光一に加えてNYCのNのほうこと中山優馬、外部の俳優さんも出演する大舞台である。
 だがここで潔く諦める私ではない。「9月中いつでもどの席でもいいから定価手数料で一枚」というメッセージをツイッターランドの波間に放った。そして波打ち際に寄せられるボトルを片っ端から開け、高額提示即決いくらだ相場がどうだの表記があれば即刻投げ捨てつつ、選り分け見つけ出した「これは」というメッセージに返信を書いて、書いて、書きまくった。断られ、無視され、音沙汰なく消え失せられまくった。
 そんな調子でただひと月が過ぎ、初日の幕が上がった。舞台はつつがなく進行しているらしい。怪我なく無事に完走できることを願いつつ、私はひたすらメッセージを発信し続けた。
 

運命の鐘は突然鳴る

 それは13日の夕方、いつものように拾い上げたメッセージに返事を書き、いつものように断られ、「はい次ー!」と潔く気持ちを切り替えた後のこと。何の前触れもなく一通のDMが届いた。先ほど丁寧なお断りメッセージを頂いた方からだった。「譲る予定だった方がキャンセルとなったので、まだ探しているなら譲り受けて貰えないか」という――俗に言う「復活当選」のお知らせである。
 二つ返事で話に乗った。まさかまさかの正門さんである。しかも譲り受ける公演は翌14日。私は慌ててATMに向かい軍資金を得、ついでにお礼の手土産を用意した。観劇向きのまともな服がなかったので実家に取りに行ったりもした。興奮しすぎて翌朝5時に目が覚めた。支度を進め、足を手配し、新幹線に一時間揺られ、大阪梅田の地に降り立ってなお、現実味がなかった。
 ――私、どうやら『SHOCK』に入れるらしい。
 
 17時の梅芸前、なんの問題もなく待ち合わせに成功し、チケットを譲り受けた。開場後のグッズ購入もスムーズに終えた。そうしてご案内された席は2階ほぼ中央前から2列目。やばい、ステージ全部あますとこなく超見える。2階席ですけど、などと申し訳なさそうにする必要なんてまったくない神席だ。
 スクリーンに写し出されるはマンハッタンの摩天楼。あのステージに、推しが立つ。ここで、初めて、生で、ライヴで、最も新しい、なうな川島如恵留さまのお姿をこの目に焼き付けることができるのだ。そして同時に、初めて「ジャニー喜多川の手による純正のジャニーズの舞台」を観劇するということでもある。
 
 一抹の不安はあった。これまで書いてきたいざこざ怨念たっぷりの記事をご覧いただければわかることだか、私とかの事務所は推し周辺だけでなく、広範囲の世界や社会についても解釈違いを起こしていることがままあった。推しが愛し、推しを愛してくれているのだろうこの舞台が、私にとってどのように映るのか。合っても合わなくても論を戦わせることに変わりはないが、壊滅的に相性が良くなかったら、やっぱり、ちょっと、つらい。
 基本的に現場の予習はしない主義であるため、『SHOCK』のうすぼんやりした前知識は「舞台はNYの小劇場」であること、「主人公とライバルの二派に分かれて争う」こと、「光一さんが飛んだり階段を転げ落ちたりする」こと、「何があってもショーは続けなければならない」こと。そして6月の『ザ 少年倶楽部』で披露された『SHOCKメドレー』でのいくつかの楽曲とパフォーマンスである。あれを見て「如恵留さまの生のステージを拝まずに死ねない」という決意が固まったのだ。
 どれほど使えるものか解らないながらもいちおう双眼鏡を手元に用意し、18時。
 幕が上がった。
 

推しは確かに実在した

 あの日、配信の画面越しに私を撃ち落とした推しは、寸分の狂いもなくそのまま推しとしてステージに立っていた。スタンス広めの立ち姿。ミサイルかレーザービームかという勢いでまっすぐに伸びた背筋。羽根のように舞い、大きな世界をいだく両の腕。隅々まで熱の通うしなやかな指先、視線の動き。「あっもうこれは物質として好きだな」と思った。ひとつのオブジェクトとして、造形物として好みなのだ。この感慨を抱く対象は他にも何人か存在する。バーナビー・ブルックスJr.のヒーロースーツ、女王蜂の薔薇園アヴさま、そして真空ホロウの松本明人さまである。
 
 そして、とうの舞台の内容はといえば、思いがけず、良かった。
 スタンディングオベーションののちに幕が下り、終演の報せが響く会場で呆然と椅子に座った私が最初に抱いた感慨は「は、反省した――?!」であった。
(この先、全力でネタバレです。)
 
 

『SHOCK』という衝撃

 それから約10日後の25日。まさかすぎる二度目の復活当選によってセカンドチャレンジの幸運にあずかった。こんなことってあるんだな。DM千本ノック無駄じゃなかったな、と、親切な方々に感謝しつつ二度目ましての観劇を終えた。一度目はショー全体とストーリーに集中しすぎて双眼鏡を装備する暇もなかったので、二度目はほぼ全編にわたって推しだけを追ってみた。すごいね、ソロアングルって。なんかもう充実感がすごい。如恵留さまのダンスの、腕を上から左右に降ろすときの軌道が好きです。軌道推しです。
 幕間と帰りの新幹線内でひたすら打ちまくった脳直メモ(箇条書きの備忘録)に、それぞれの公演でのアドリブ演出やより生に近い状態の感想を記したので、こちらではそれらを踏まえた『Endless SHOCK』所感を以下に書き留めておく。
 
 ようするに「男と男の意地の張り合いがとんでもない悲劇を生むが、どうにかこうにか立ち直っていく」というまぁお仕事ものとしてはよくある筋、に、劇中劇というかショー中ショーをふんだんに盛り込んだ、舞台を舞台にした舞台なので、つまるところ私が嫌いなわけがない構造だったのである。
 また、シーズンごとに主要キャストがちょこちょこ替わり、それに応じて演出も変わるという点も面白い。 主演が同じでも長く続けられるのは、そういう部分で新しい空気を取り入れて味わいを変えているゆえか。とくにコウイチと対立する「ライバル」キャラの違いは、ストーリーのバックグラウンド自体を全く別の解釈にしてしまうのではないかと思う。私はライバル役がユウマである回しか知らないが、これが東京・帝国劇場での内博貴だったなら――否、『ザ 少年倶楽部』で少しだけ垣間見たウチがライバルの『SHOCKメドレー』を思い出してみただけでも、まったく違うと断言できる。
 ユウマは名目上は「ライバル」役だが、コウイチの「ライバル」キャラというより、弟分のように見えた。舞台上の役柄ではあるが、役者の名前と同じ名で演じられることによって、現実にイメージが引きずられてしまう。キャリアや実年齢の差が意識されるため、どう少なく見積もっても5~6歳くらいは離れている印象だ。「カリスマ的才能をもった兄貴分と、それを追う弟分の苦悩」として見える。その想い人であるリカもユウマたちに年が近いイメージだ。「同じクラスの好きな子が、憧れの先輩ばっかり見てて俺には見向きもしてくれない」そんな風に感じられた。コウイチとすり~ゆ~(フクダ・タツミ・マツザキ)が兄組、ユウマとトラ3(カイト・ゲンタ・ノエル)が弟組、というような、我々にとって馴染み深い構図がそこに見出されたわけだ。
 
 ユウマとチームを組んでパフォーマンスすることの多いトラジャの三人組――カイト・ゲンタ・ノエルが、よりライバルと距離が近く思えたのは、ひとえにノエル――如恵留さまが中山の優馬くんと同級生であり、トラジャ結成よりも前に同じ舞台(『PLAY ZONE』等)で共演し、あの『青春アミーゴ』も二人で踊った、地元じゃ負け知らずの仲であるため、カンパニーのメンバーである以上に、ユウマのひとりの友人として接しているような目線の近さが感じられたからだ。近さがあるがゆえに、コウイチと対立し苦悩するユウマと彼との関係性の描写には、おそらく今までの「ライバルとその周辺」の表現にないものが生まれていたのではないかと思う。少なくともウチ(内博貴)がライバルであった帝劇公演では見られなかったものだろう。
追記:『BEST STAGE』2019年12月号掲載の松倉・松田・川島の三名による鼎談にて、如恵留さまから下記のような事実が語られている。

川島 僕は東京と大阪で設定が変わったんです。大阪公演前に光一くんから「(中山)優馬と仲良いの?」とか聞かれて。同じ年生まれで昔から一緒に仕事してたって話したら、「そっか。じゃあ例えば…」って、リカに渡す指輪をノエルが取りに行くとか、ユウマの指輪や服はノエルが一緒に探して選んだっていう話をしてくれて、「それくらい近い関係性を出してほしい」と。

 やはり梅芸公演におけるノエルは「ユウマの友人」として、より近い存在として作られていた。こうなると是が非でも帝劇公演と見比べたいところであるが、双方円盤化しないことにはどうしようもない。よし! 要望だそうか!
 
 

ノエルにとっての「事故」。そしてノエルに見えているもの

「ノエルの会(野鳥の会)」状態での観劇を終えて、もっとも「これはつらい」と思ったのが、劇中劇としての第二部『ジャパネスク』前の幕間のワンシーン。コウイチと完全に決裂し、背を向けたままのユウマにノエルが駆け寄ろうとするが、オーナーに制されて声をかけるのを諦め、なにかを振り切るように、逃げるように走って退場する、というくだりだ。この後、ユウマは次のパフォーマンスで使う日本刀の予備に細工をする――。
 もし、あのとき、ノエルがユウマと会話していたら。もしかしたら、何か違う運命もあったんじゃあないか。 そんな想像の余地が、予感めいたものがこのくだりに現れていた。そしてそれこそが、私の思う『SHOCK』の核である「“王”を支えるということ(その難しさ)」に繋がっている。
 どんな言葉をかけようとしたのか。ユウマの言動を諌めようとしたのか、はたまたユウマに同意するのか、単に慰めるつもりだったのか。なんの言葉も用意されていなくて、ただその背に声をかけたくてそうしただけなのかもしれない。たとえオーナーに制されたとしても、制止を振り切って声をかけてしまうことだってできたはずだ。実際にはそれは成されず、ノエルは上手袖に向かって数歩、緩慢に足を進め、未練を裁ち切るように駆け足で走り去った。
 事のすべてが露見したとき、ノエルはきっと、声をかけようとして止めたあの瞬間のことを思い出しただろう。そしてあらゆるIFを想像し、そうならなかった結果として目の前に横たわる現実を見て、愕然としたのだろう。
 あのときノエルがユウマに声をかけていたら――たとえユウマの心境に大きな変化はなくとも、二幕開始まで残り数分というわずかな時間に、模造刀へ細工をする暇が失われてさえいれば、あの「事故」は起きなかった。そして、その言葉で「あなたのことを気にかけている人間がここにいる」と伝わってさえいれば、「みんな離れていく」なんてユウマが嘆くことも、きっとなかったはずなのだ。
「事故」以降、背負ったものの大きさから心を閉ざしたユウマには、フォローのためにマツザキを向かわせたコウイチの心情はおろか、ずっと共にいたノエル、カイト、ゲンタの存在さえも見えていなかった。「みんな離れていく」と嘆くユウマに、ノエルは首を振って否定する。彼らはずっと傍にいて、ユウマを支え続けていた。――否、支えているつもりだった。いくら想っていても、届かなければ、伝わらなければ意味がないのだ。これが「あの時、声をかけられなかったこと」に象徴される、ディスコミュニケーションによって生まれた悲劇であるし、それはユウマとコウイチの間にも、コウイチとカンパニーの面々にも言える。インペリアルガーデンシアターでの公演を打診されたときのコウイチは、皆がその場を去った後、オーナーただ一人にしか自身の心情を、最終決定を語らなかった。これまでにない大きな劇場での公演。入れ物や客層が変わるなら演目も演出もそれに合わせて変えなければならない。カンパニーの顏であり、すべての責を背負った座長・コウイチにかかる重圧は相当であったはずだ。カンパニーの未来を先の先まで見据えながらも、孤独、不安、葛藤があるのだとその場面からは感じ取れた。コウイチはそれらをカンパニーの面々の前ではけして見せることなく、皆をひっぱる座長――「王」として突き進んでゆく。そしてユウマの離反が起き、「事故」が起きる。
「王」を支えることは難しい。「王」はすべてを抱えようとしてしまうし、逆説的には、抱えたまま成し遂げてしまう力があるからこそ「王」足りえるからだ。誰にも代わりは務まらない。頂点は孤独な場所だ。あまりに高い場所は冷たく、花も咲かない。

高いところは気温が低い、凍えるくらい……花も咲かないくらい寒々しい!
だから、ボクはここにきたんだ! お身体の弱い英智さまが、風邪をひかないように!
絶対に、逃げだしたりしない! 英智さまに寄り添うんだ、それがボクの誇りなんだ!
(『あんさんぶるスターズ!』イベントシナリオ『誉れの旗*栄冠のフラワーフェス 天使/第二話』より、姫宮桃李の独白)

 それゆえに、彼を支えたいと思うものが周りに集う。どんなに「王」が独りの道を進もうとしていても、その背中に届かなくとも、手を伸ばし続け、寄り添い続けるという強い意志が必要なのだ。ユウマも、ノエルも、その他カンパニーの面々もそれを途中で諦めてしまった。「王」を孤独にしてしまった。だから悲劇が起きた。『SHOCK』の核はそこにあり、すべてのことを終えた二幕ラスト、コウイチの独白とオーナーの総評にも表れている。もっと周りを見回して、自身を支えてくれるものものの存在を感じることの重要性に「王」が気づく。「みんなが居たから走れた」。ただ、少し遅かっただけで。
 
 ――と、そんな風にユウマに寄り添おうとする側面が強かったノエルだが、それとまた別の面も表現されている。コウイチが復活し、ユウマのステージにゲリラ登場したときだ。登場したコウイチに真っ先に気づくのはノエルだった。そして、コウイチの率いるダンスの隊列に、真っ先に加わって仲間たちを誘い出すのもノエルだった。なにがなんだかわからない状況の中で、でも、あのショーに参加したい。踊りたい。歌いたい。ショーを続けなければ――。マツザキやユウマに必死に訴えかけ、やがてダンスの隊列に加わった彼の表情は、晴れ晴れとして活力に満ち溢れていた。
 より良いステージへの強い希求。次から次へと新しいことに興味を持ち、己の表現に取り入れていく、あくなき向上心と探求心。 それはコウイチの持つパーソナリティだ。そしてパンフレットに書かれたノエルのキャラクター設定は以下である。  

好奇心旺盛なカンパニーの若手ホープ(強調部分は筆者による)

 ホープとはつまり「期待をかけられている新人」 なんの期待かといえば「コウイチ、ユウマに続く次世代の花形(エース)として」に他ならない。少クラで放映された『SHOCKメドレー』で、企画主の河合さんに「まるで座長のようだ」と揶揄されたのも思い出される。あれは厳密にいうと「如恵留さま」であって「ノエル」ではないし、つ~ゆ~(福田・松崎)と松松の2シンメに対する余りの1名であったためそう処理されたのであろうことは承知の上であるが、ただその振る舞いから……なんというか、「魂の近さ」とでも言い表せるものが感じられるのだ。ユウマ組の中では「あちら側」に近い。此岸ではなく彼岸の側に片足を突っ込んでいる。そんな風に感じられるのだ。「あちら側」というのは「ショーに殉じるあまり、命すらも投げ出してしまえる/投げ出してしまったもの」ことを指す。
 また、これは私自身がこの目で確認したものではないが、別日のレポによるとノエルは冒頭の千穐楽を終えた楽屋の場面で、何もない誰もいない空間に向かって、あたかもそこに人がいるかのように振る舞っていたという。お茶目な如恵留さまによるちょっとした悪ふざけと見てもいい。だが、私にはそれが、舞台の冒頭でオーナーが語っていたような「ステージをさまよう魂」の表現に思えてならないのだ。コウイチのように、自分がもう死んでいることさえわからないまま、舞台への執着によって黄泉返ってきてしまったものたちが彼には見えていて、それらが「この世のもの」ではないことを理解しないまま接している。そしてそれが「あちら側」への魂の近さの表れなのではと、そんな風に思えてならないのだ。
 オーナーも長い舞台人生の中でそれらの存在を見知っていて、だから病院で絶命したはずのコウイチ(リカは現地で直接聞かされたが、先にコウイチの遺影的写真立てを準備している様子から、それと前後してオーナーには電話等で伝えられたものと思われる)がオフブロードウェイの小劇場へ姿を現したときに取り乱す様子もなく、悠長に「1曲踊ってみないか」と誘ったのだろう。おそらく、目の前のそれが「本物のコウイチ(の魂)」であるかを確かめるためでもある。
 ひとりの友人としてユウマに寄り添おうとする心と、コウイチのごとく、ステージに立つことを至上の歓びとして、舞台に心血すべてを注ぎ込もうという強い意志。双つの面を持ち合わせた人物として絶妙なポジションに位置していたのがノエルなのだ。  
 

この物語は「ハッピーエンド」である(のか?)

『SHOCK』一度目の観劇で、何気ない会話なのにやたらと印象に残っていたのが、インペリアルガーデンシアターで公演中、幕間の場面でのコウイチとすり~ゆ~の誰か(すみません確認しそんじました……フクダさんかな……)のやりとりだった。「一幕の終わり方、暗すぎない?」そのようなことを問いかけられたコウイチは「その分、二幕の『ジャパネスク』はハッピーエンドなんだよ」といった主旨の言葉を返す。その後、ユウマとひと悶着あった末にあの「事故」が起きて、現実の、わたしたちが見ている『SHOCK』の第一幕が閉じられる。
「ああ、“このこと”を言っていたのか」と、壮絶な大階段を見届けて疲弊した頭の隅でぼんやり思った。確かに第一幕の終わり方、暗すぎる。そして『ジャパネスク』演目中のコウイチの不死身っぷりや「化け物」「死に損ない」なんて台詞も、二幕への伏線だと気付かされる。殺しても殺しても蘇ってくるコウイチ。ユウマにとっての脅威であるコウイチ。 (あと、これは穿ちすぎなのかもしれないけど『SOLITARY』のユウマって出トチらなければどこまで出演してたはずたったのか。コウイチがどこまで代役だったのか。最後に拳銃自殺するのがユウマで、それを代わりにコウイチが演ったなら、現実の第一幕ラストでユウマの代わりにコウイチが斃れるのって舞台に現実が引っ張られてるみたいですごく怖くて面白いし、ユウマを殺すためのナイフがコウイチ刺す(ソリタリで拳銃を手渡すのはリカなので)流れまでそれは続いてる。あのくだりはシェイクスピアの悪夢でやった『リチャード三世』のリフレインでもあるけども。)
 そして、「暗すぎる一幕」に対して「二幕はハッピーエンド」だということは、『SHOCK』自体の顛末もまた「ハッピーエンド」であるわけだ。主人公が意地の張り合いで大切な幼なじみを殺人者にした挙げ句、慕ってくれていた人にまで手を汚させて二度死んでさえも、この物語は「ハッピーエンド」である、と言っているわけだ。
 「正気か?」とたいていの観客は思うだろう。主人公の死で幕引かれるあれが「ハッピーエンド」だったと解釈できる人間はかなり珍しいと思われる。「ビターエンド」、良くて「トゥルーエンド」だろうか。しかし、こう示されている以上、『SHOCK』を「ハッピーエンド」として捉えなおす必要がある。
 すべての真相が明らかになり、わだかまりが解け、カンパニーは一致団結し、コウイチは最後の演目をやりきって、物語は終幕を迎える。「王」はたとえ後の祭りでも、自らの行いを省みて皆のことを想う――この辺りは「ハッピー」に相応しいだろうか。個人的にこの「王が反省する(枠外の語り部の位置にあるオーナーもそれを補強する=作品全体を通しての思想・結論に値する)」という着地点が予想外だった。だってこれまで私が見てきた事務所のやり方と違うから。かの事務所はずっと「王」を孤独の淵に立たせることを良しとしてきた――私にはそう見えていた。ゆえに、少なくとも私にとって『SHOCK』の結末は納得できるものだった。この結論によって、より良い未来が提示されていると感じられたからだ。(と、同時に「じゃあなんでアレとかアレとかアレはああいう風になったんだよ」とキレ散らかしたい欲求も、なくはないが)
 ブロードウェイの先に何が見えるのか、コウイチに何が見えていたのかわからないように、コウイチ亡きあとのカンパニーの先は明示されないが、「前に進まなきゃいけない」とリカの台詞でも示されるように、彼らがゆっくりでも前に進むこと、先が「ある」ことは確実なのだ。『SHOCK』が「ハッピーエンド」であるとするなら、残された者たちの未來への祝福として、そして果たすべき義務としての「ハッピーエンド」なのかもしれない。

最後にこれだけは言わしてほしい。

「傷つくことで新たな表現がみつかる/強くなれる」は傷つけられた/傷ついた側における反骨か、せめてもの慰めであって、「よって強くさせるためにならみだりに傷つけてもいい」ことにはならないんだぞ!!
 そこ、はき違えてるんじゃあないかってしょっちゅう思わされるから!! ほんと!! そこだけは順序間違えんなよ!! わかってるか!!
(あ、さらに付け加えとくとこれ滝沢P以前からずっとず~~~~っとある問題だからそこもはき違えんでくださいね。誰にとは言わんけども。)
 
 以上! 色々あってまとめるのに二ヶ月かかったけどFNS歌謡祭SHOCKステージには間に合ったからいいことにする!
 カイト・ゲンタ・ノエルはいったん卒業だけど、いつかまた彼らに会える日を待ってます!!(チケットがご用意されるとは言ってない)