王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

推しの「留学」と現状について改めて本気で考えたい

 まず、前提としてこの記事の筆者がどのようにして彼の活動を追い始め、此度の一件を第一報の時点でどのように受け止めたのかを確認してから以下の雑文に進んでいただきたい。
 3万字近くあるので暇じゃない人は最終段だけでいいです。

nasamu-konirom.hatenablog.com

 2018年6月末、Hey! Say! JUMPのメンバー岡本圭人の「留学」にともなう「活動休止」が発表された。第一報の時点で詳細は明かされなかったものの、その後の報道や音楽番組などに出演した際のコメントにより、「留学」期間は2年コースであることが確定している。今年9月に入学し、予定通りにすべての課程を修めれば、卒業するのは2020年6月頃になるはずだ。(先に挙げた記事では「9月」と書いていたが単純に渡米・活動休止から2年でカウントしていた。某大型国家プロジェクトに関わらないで済むかどうかが微妙なラインになってややぬか喜びの感は否めない)

 私の胸のうちにずっと引っかかっていたのは、「留学」発表の翌日、山田涼介が公式ブログ『JUMPaper』で発した「なぜ今なのか」と言う問いかけだった。確かに今年は、夏、冬の2期をかけて宮城県との大きなコラボキャンペーンを打ち始めたばかりであるし、改元を来年に控えている――グループ名に組み込まれた元号「平成」最後の年でもある。そんな今、どうしても行くべきなのか、という問いかけだろう。しかし、私にはそれ以上の意味があるように思えてならなかった。たとえば、何よりも間近に控えているニューアルバム、そしてアルバムを引っさげて今夏から始まるであろう、コンサートツアーについて。
「留学」発表の直後とも言える時期に公にされた6thアルバム『SENCE or LOVE』における公式プレスの触れ込みは「力強く“踊る”がテーマ」「今この時、Hey! Say! JUMPだからできる」「グループ史上最もアグレッシブな楽曲とダンス」だった。
 もしこれが、「メンバーの活動休止」を目前にしたグループの新作情報でなかったら、なんてことのない、よくある、ファンの期待を高めるような、ワクワクさせる売り文句だろう。
 だが、現実において、これらの表現は一部界隈に昏い波紋を呼んだ。「今」だから「できる」こと――まるで、8人であるから、岡本圭人が不在であるからこそ、今作を発表できたかのようにも受け取れるためだ。

 このアルバムテーマが公表されたことで、「なぜ今なのか」の意味合いも、前述した「今現在継続してある仕事に穴をあける」以上の何かにとって代わった。「ダンスができない」人員が減るというタイミングで「これまでにない高難度のダンスに挑戦する」ということが、周囲に与える印象として最悪だからだ。
 案の定、SNS上では「ダンスの苦手な人間がいないから高度なパフォーマンスに挑戦できたのか」という声が、ショックと、グループおよび岡本自身に対する幾何かの反感を伴って漏れ聞こえてきた。山田涼介が危惧していたのは、このことだったのではないか、と私は思うに至った。
 もちろん、それに対する反論もあった。「(『Fantastic Time』『OVER THE TOP』などを例に挙げ)高度なダンスには今までも挑戦してきた」「ちゃんと踊れていた」――だが、それらの反論はひとつも意味をなさない。何より誰より彼自身が「自分は踊れない」ということを、10年前から今日まで――2017年のジャニーズアイランドへのゲスト参加の折にも、最新シングル盤にカップリング収録された『やんちゃなヒーロー』のMVメイキングでさえも、繰り返しくりかえし、同じトーンで発信し続けてきたからだ。彼はダンスができない。そう強く自認しているし、近しい周囲も完全に否定はしない。否定できない。何故なら、それが事実だからだ。
 自称だけではない。ファンダムでの扱いもおおむね同じだった。はてブをひも解いてみればいい。「ちょっとダンスをかじったことあるオタクがメンバーそれぞれのダンスを分析してみた」系記事の中で、岡本さんがまともに褒められているところを私はついぞ見たことがない。記事の筆者が、最も出来なかった頃のエピソードに意識をひっぱられて迂闊にも分析を目を濁らせているのでなければ、本当に「経験者として、見るべきところのない、取るに足らない」ダンスなのだろう。
 MVメイキングとして振り入れの様子が今まで公開されなかったのも「見せられたものではなかったから」だと思わせる。ひとりだけ明らかに飲み込みが遅く、周りに合わせられず、見劣りしている、そんな「練習風景」はパッケージングして流通に乗せることができなかったからなのだ、と。
 このような扱いの前例として『314~時計』というユニット楽曲がある。慣例通りであれば山田、岡本の2人等分で割り振られるであろう主旋律のパートが、“作品の完成度を上げるために”すべて山田一人に回され「山田涼介のソロ曲」として報道されたのはご存知の通りだ。私自身がリアルタイムで経験したわけではないが、同じ推しを持つ同胞にとって忘れようもない事件だった。
「留学」があったから「高難度のダンスに挑戦できた」という流れ――それはグループの過去の振舞いからも容易に想像できるものだった。
 だが――と私は思考を巡らせた。だが、あるいは、逆のパターンもあるだろう。「高度なダンス・パフォーマンスに挑戦する」というテーマが先にきていて、それが「留学」を後押ししたとすれば?
 彼の「留学」先であるところのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツは「演劇学校」で、彼は「芝居の勉強」のためにそこへ向かうという。その課程にはダンスの科目もあるというが、ジャニーズアイドルが習得している技術は幼い頃から修練を重ねてきた結果身に付いた特殊技能であると聞く。つまり、「幼いJr.期の(もしくはそれ以前の個人的な)修練で決まる」=「今から外部でやっても遅い」ということだ。そして、「ジャニーズの中で映えるダンス」を習得したいなら、事務所の中で今まで通りにレッスンを受けたほうが確実なのは明白だ。
 要するに、もし、グループがこれから「踊れる」ことを全面に出していきたいとして、そのなかで「演劇学校」へ「留学」するというのが、バンドだったら「音楽性の違いで解散」しているくらいの方向性の不一致に思えてならないのだ。「彼はもう踊りたくなかった(ひとつも身にならないダンスのレッスンで人生の残り時間を無駄にしたくなかった)だから“留学”した」と受け取られる可能性も、「踊れない人員を排除したことにより成立したパフォーマンス」のそれと同等に存在しているわけだ。
 そして、どちらにせよ彼が「戻ってきた」とき、今作で魅せつけられたあのパフォーマンスは、もう、見ることは叶わないだろう、と思わせる。
 それだけのことが、今、見えている現状からは想定され得る――ああ、ほら、みんなの大好きな「情報を売り払うようなやつとは付き合うな」と同じ「結果だけをみた自己責任論」ですよ――こう思われてしまうことは想定の範囲内で、そのうえで彼は「留学」を決行したし、組織はそれを止めなかったし、此度のアルバムは発表され、パフォーマンスも予定通りに準備され、披露されて、山田涼介は「なぜ今なのか」と口にしたのだ。 イメージ先行のこの商売で、イメージがすべてであるこの業界で、「そう思われても構わない」から、そうされた。彼らを売り出す事務所の商業的判断においても、そして、「そう思われても構わない」ほど、グループの中にに己を存在させたくなかった彼個人の心情的にも。

 彼の持つ「メンバーに対する異常なまでの奉仕精神」と、「グループへの非・帰属意識」(グループの外側から、まるで己が構成員でないかのような物言いでメンバーを見ている場面のなんと多かったことか!)は、相反するようでいながら根深く接続している。「“JUMP”になりたかった」「だが、なれなかった」という意識だ。
 彼を取り巻いてきた状況はそれを育むに十分すぎた。「外部での仕事をグループへ還元する」以前に、「内部」でさえも不純物に等しい、取るに足らないものとしての扱い(歌割の不均等、前述のした『314~』の一件など)を受け続けてきたのだ。(であるがゆえに、あのユニット活動の前後期から「やまけと」は急速に接近し、山田の発案によってHey! Say! 7楽曲『パーリーモンスター』でサビ以外のパートをほぼすべて岡本に配当するという試みがなされた。まるでこれまでの贖罪のように。)
 
 
 私は、興味もなく、苦手(だと強く自覚している)なことを無理矢理習得するよりも、興味のあることに打ち込むほうがいい(というか、得意でもなく興味もない分野を続けることが圧倒的に時間の無駄になるタイプがいる)(数学の宿題を解きながらあまりの嫌さに蕁麻疹を発症し、体中掻き毟って血まみれになり、親や塾講師からは匙を投げられ、大学入試を国語の成績“だけ”で通過した個人の経験に基づく)と考えているので、彼が学びたいことを学びに行くのであれば、これ以上に良い選択はないと思っている。時期についても同じく。10周年を無事に終え、記念楽曲の制作に関わり、紅白にも初出場を果たした。逆に「今じゃなくていつ行くのか」とさえ思える。決断は早ければ早いほどいい。いっときの仕事のために人ひとりの一生を棒に振っていいわけがない。
 行き先に海外を選んだのも、とにかく今はグループからも親からも距離をとりたいのだろうし、ただ単純に、日本の学校で日本語の講義を受けるよりも英語圏の学校で英語の講義を受けるほうが彼は理解しやすいであろうから。彼の第一言語は日本語ではなく英語なのだ。普段しゃべっているときやブログ上のテキスト表現においても、助詞の使い方が滅茶苦茶なのが見て取れる。「庭」という漢字もすんなりとは読めない。幼少期にたった一人英国に放置され、使用言語を強制的にリセットされたぶんだけ、彼はこの国で遠回りをする羽目になったのだ。
 
 ホッキョクグマが、「己はライオンではない」と気づいてサバンナから北の地に去ったとして、そこに何の咎があるだろう。どこまでいっても帰属できない漂白者(ストレンジャー)である彼が、もし、帰ってこなかったとして、それを誰が責められようか、と私は思っている。