王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

幻想を抱いて死ね!!!!~ウインクあいち『M.バタフライ』~

 あけてましたおめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 このタイミングであげる記事といえば恒例の買って良かった記事――だと思ったか?! そうは問屋が卸しませんよ!
 一年のまとめを年内どころか翌年1月中にも書ききらないのがここの主なので、この記事は当然「昨年中にあげるべきだったのが年中ちょっとかなり色々なことがありすぎて先送り先送りになっていた内容を年末年始休暇のうちにやっと書き終えて校正してお出しする回」である。長いね。
 本っっっ当に2022年は色々あって、当記事はその色々のうちのひとつで、書ききらずに遅れた理由も記事中に記しています。 
 以上、前置き(言い訳)以下本文。ちゃんと真面目な感想文です。

動転の春

 2022年春、推しグループが突然の留学を発表をした。その件についてはまったく落ち着き払っていたワタクシであるが、ちょうど翌週に飛び込んできたニュースには動転せざるを得なかった。
 まず飛び込んできたプレスの、ヴィジュアルがこうである。

 待て待て待て待て、ステイステイステイ。

 ヴィジュアルに動転したうえで記事本文を読んでツッコミどころが108個くらい思い浮かんだ。推しが? 京劇の? 女装の? スパイで? 男とバレずに? 男とねんごろになる? 役ですか?(6個だったね)
 ボーイズのラブをテーマにした作品と文化を愛好して生きてきたオタクたちの脳裏に「そうはならんやろBL」が過っていたであろうことは想像に難くない。たまに見るアレだ。「双子の姉だか妹だかの身代わりになって敵国のいけすかない王子に嫁ぎ、当前バレるが何故か受け入れられる双子の兄だか弟」みたいなやつだ。
そんなわけがあるか。バレた瞬間に一族郎党粛清の憂き目に遭うだろ。
 と思わずツッコミたくなるが、そんなわけがあるかという設定をこそ愉しむ文化でもあり、一定の需要があって存在している、アレだ。
 もちろん、この作品は狭義の「BL」(BL専門レーベルから出版される著作物)ではないし、解釈としてもBLと見なす愛好者は少ない気がする。前情報からは、主人公は相手を女だと勘違いしたまま最後までいくし、スパイは仕事のためにターゲットである主人公に接近していることしかわからないからだ。私はボーイズラブラブだけでなくボーイズギスギスもボーイズドロドロもボーイズ憎み合いもボーイズ殺し合いもこよなく(むしろラブラブに輪をかけて)愛しているので、その点で楽しめるのでは、とも思ったが、しかし真面目な話、多方面にセンシティブな題材であることは間違いない。
 その点も気になっていたし、推しも事前予習を勧めてくれていることだし、と私としては珍しく、映画版で「予習」をすることにした(ネット回線とBS放送に入会する際、抱き合わせで会員登録されたU-NEXTにたまたま映画版があったことも大きい)根っからの引き延ばし癖のせいで観たのは前日深夜という体たらくだったが。
 そうしてわたくしは映画版を見、その結末に「BLじゃないと思うじゃ~~ん? 嫌いじゃないほうの最悪胸糞BLだったわ……」「これ推しが演るんか……ほんまにか……??」と頭を抱えて、観劇に挑むこととなったのである。

時空・演技の多重構造

 舞台は主人公ルネ・ガリマールがひとり刑務所の個室にいるところから始まる。独房に持ち込んだラジカセでオペラ『蝶々夫人』を聴いているガリマール。そこから、すべてのことが終わった後のガリマールの一人語りで舞台は進行されていく。一見して「過去回想」なのかと思うが、これは純粋な回想ではない。(そもそも一人称による「回想」はすべて回想者の主観であり、当人にとって真実であっても「事実」の再現には絶対になり得ないのだが)今回の舞台において観客が語り聞かされるのは、ガリマールが独房でくり返しなぞってきた幻想――妄想と言っていいものなのだ。彼はその妄想の中で、この物語の下地であるプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を説明するための劇中劇を始めたり、そこに想像上の旧友を共演者として召喚したり、青年期から少年期まで思い出を遡ったりする。これは時間も空間を自在に操ることのできる舞台だからこその表現方法で、三人称カメラで時系列順に展開する映画版では描ききれなかった要素だ。
 この語りの構造によって、ガリマール以外の登場人物たちの言動はにわかに疑わしいものになってくる。妄想の中で何度も姿を変えるソン・リリンはもちろん、夢の中にしか出てこない旧友マルクも実在したのか怪しくなってくるし、上司も裁判長も、本当にあのように振る舞っていたのか、あのような発言をしたのか定かではない。ガリマールは己の理想とする結末になるようくり返し脳内で演じ、そして実際に自分の都合のいいよう改変したストーリーを我々に語ろうと試みているためだ。(それは想像の中のリリンによって阻止されるのだが)
 そして、この構造により、ガリマールが恋し、愛人となって20年あまり生活をしたソン・リリン(扮する岡本圭人)には、何重もの演技・演出フィルターがかかっていることになる。まず、「ガリマールの理想・妄想内の登場人物として」次いで「中国共産党のスパイとして」、「女形を演じる京劇俳優として」……それを「俳優・岡本」が演じるのだからえらいこっちゃである(さらに俳優・岡本の内側には真なる個人の岡本がいる)。オペラ『蝶々夫人』の概念を纏う理想的な東洋人女性としてのリリン、妄想の中でガリマールを痛めつけるドS女王様のリリン、激動の時代にある中国で生き残るためにスパイ活動をやり遂げる素のリリンとバリエーションがあり、それに伴って衣装のお召し替え(京劇の衣装・和装・チャイナドレス・洋装のイブニングドレス・人民服・アルマーニのスーツまで!)がアイドルのコンサートばりに多く、オタクであるワタクシはひじょ~~に楽しめた、わけ、だが、楽しめちまったがゆえに、ガリマールと同期してしまっていることが自覚され、観劇後はしみじみと項垂れることとなってしまったのである。

 そう、これは我らオタクの話なのだ。
 『M.バタフライ』上演会場に、‟あの”ぬいぐるみマスコットを握りしめて行ったオタクたちはきっと皆、“彼女”のことを知っていたはずなのだから。

或る“少女”の記憶

Hey! Say! JUMP LIVE TOUR 2016 DEAR.』通称「親愛コン」、演出として踊らないキッズJr.しかバックにつけなかったあの公演において、9人のメンバーのほかにもう1人だけ登場した人物がいる。“彼女”は「ジュリエット(JUMP担いにしえの呼称)」として、WアンコールでJUMPのメンバーがステージに再登場したとき姿を現し、ファンの代表としてステージ上方のバルコニーを模したセットで、メンバーと軽くやりとりしてから、『Romeo & Juliet』というアンコール定番曲へのフリをする。‟彼女”の名を「ケイティ」という。

 昔の話をしよう。
 ある日のこと、ツイッターランドのTLに流れてきた一枚の写真に、私はくぎ付けになった。それはいわゆる公式写真ではない「闇写」で、ケイティとして出てきた岡本さんが金髪のウィッグをかなぐり捨てたあとの、「女子っぽいメイク」だけを残した姿を写し取ったものだった。あの頃の彼はボブほどの長さの髪をうなじのあたりでひとつに結っていて、雑誌のライヴレポ等にもなかったそれを見た私は「最高」になってしまった。最高であったからだ。その写真はインターネッツの波に乗って闇から闇へと流れて行ったが、私はいまだにその姿を瞼の裏にありありと思い浮かべることができる。最高であったからだ。
 オタクは推しの「女装」が好きである。アイドル雑誌やバラエティー番組、YouTubeで女装企画が披露されない年はないし、オタクはそれを見て「普通に可愛い」「女子ドルにしか見えない」「女として負けた」などとコメントする。しかし、それはあくまで企画や舞台上の演出・役柄によるものとしての「女装」であり、推しドルが日常的に、「(ユニセックスファッションとしてのレディースアイテムのポイント使用の範疇を越えた)女性装」をして生活していると明かした場合の反応は変わってくるだろう。
 そのことへの是非を語る場はここではないので割愛する。ただ、全てではないが概ねのオタクには、たよーせい自己表現諸々の文脈ではなく、バラエティの演出として推しのの異性装を愛でる習慣があるということ、それだけを覚えていてくれればいい。告解タイムは次の次のセクションに回し、いったん本篇に戻ろう。
 

西洋と東洋、見る者と見られる者、現実と夢、男と女

 この作品は様々なトピックを二項対立で語っている。
 中でもいちばん概念としてでかい要素が「西洋と東洋」だ。この関係については冒頭も冒頭、ガリマールとソン・リリン初対面のシーンでほぼ全部語られている。裁判中にメンズスーツ姿のリリンが長々語るシーンはぶっちゃけ蛇足やろというくらいド頭で全部言い切ってる、と思う(スーツ姿で「ン~~これは信じて欲しいなァ~……」とか言って「俳優らしい芝居がかった仕草と台詞で裁判官をおちょくる演技」をするリリンは大層ツボだったんですけども)
 ド頭でからくりを全部つまびらかにしてしまうのか、と映画版を見たときにも思ったが、この「西洋的帝国主義オリエンタリズム」へのエクスキューズを出会い頭の鼻っ面にグーで叩きこんでおかないと、観客の大多数が理解できないと考えてのことなのかもしれない。今回はおそらく「女性客やや多め」といったところだが、ブロードウェイでの公演時にはどうだったのだろうな(なお、おおいなるへんけんのもとに理解できるのは女性で、できないのは男性という前提でワタクシは書いております)
「見る(主体)/見られる(客体)」の関係性としてはまず、1幕序盤のガリマールの自己紹介である過去回想パート。子ども時代の彼が叔父の家でエロ本を読んで妄想を爆発させるくだりだ。あちらのエロ本の定番シチュエーションは(本邦の実写ビニ本も)ようは知らんが、エロ本のピンナップガールは手出しできない遠くの窓から読者を誘うという設定で、12歳のガリマールは誌面の女に「あなたに見せている」と名指しされ、畏怖のようなものを感じながらも「見られたがっているのだ」と歪んだ認知を得ていく。(創作物に影響を受ける受けないみたいな話は昨今しきりに言われているけど、影響、受けるよなァ~??
 エロ本の女はどんなに奔放に積極的に振る舞っていても、編集者によって意図的にそう演出されているだけであって、完全に客体である。ここで、見る側の姿を認知されず「一方的に見られるだけの存在(女)」を畏れながらもエロ消費するという様式が彼の中に完成し、それは(一般的に)イケてない青年期を過ごすことで塗り替えられることもなく、中年期まで保存されている。その後、運命の夜を経て、北京の劇場でガリマールはソン・リリンに「あなたを見ているの」と名指しされる。京劇の姫(おそらく『覇王別姫』の虞美人)を演じるリリンは客体であっただろうが、認知されない側であったはずのガリマールを舞台上から「見て」、舞台から降りてきて話しかけさえする。これは『蝶々夫人』を観たあとの会話で正論グーパンを食らったときと同等の衝撃だったに違いない。そしてここから決定的に、見る側と見られる側の境界がぐにゃぐにゃと歪み始める。2幕以降には語りの主導権すらリリンに渡してしまうシーンが度々出てくる(観客にリリンの状況を説明する必要があるというのも要因ではある)(また、全体の構造が「ガリマールの妄想」であるゆえ、ガリマールに都合の悪い妄想もガリマール自身の描いたものであるといえる)その結実が、リリンの正体がフランスで明かされたあとの形勢逆転だ。リリンは最後、現実の肉体をもってガリマールに己を「見せつける」が、ただ見せつけるのではなくガリマールを見ている。ガリマールはリリンを直視できないので、あとはもう「見られる」だけである。

 この「形勢逆転」は別の場面でも起きている。ガリマールやリリンがこれまでさんざん語ってきた「東洋の女」――「幻想の女性」ではない「現実の女」であるところの中国共産党員・チン同志と、スパイとしてこき使われるリリンの間でである。文革が激化する中、当局に働きを認められたというチン同志はガリマールがフランスに帰国して役立たずになったリリンに自己批判を迫り、これまで「東洋の男」たるリリンが己を見下してきたことへも言及する。男が女に対して、まるで女をわかったような口を利いていたら(しかもそれが的外れなら)そりゃあイラっとくるだろうし、おまけに都会で豪遊してきたインテリ芸能人、「農民なら一生続けるはずの仕事」に4年で音を上げるヘタレである。
 彼女は以前リリンから「なぜ京劇では男が女役をやるのか? 女がどう振る舞うべきかわかるのは男だから」というようなことを何度も言われ、この場面では「あなたには男心がわからない」とも言われる。どっちやねんというか、「男心がわからない」のは「“男”ではないから」なのか「“理想の女らしく振る舞わない女”だから」なのか、ここだけピックアップしても明言はできないが、前段の「どう振る舞うべきかわかる~」に呼応しているなら後者だろう。つまり「あなたは“女らしくない”から“男心”がわからない」ということだ。チン同志はそれに「私は結婚しているし、男と暮らしているが?」と反論する。「“本当の”“ただしい”女はこっちだ」と。実際、同志に命じられてフランスに行かされたのち、リリンは受け入れられないと思っていたものの、ガリマールは彼を受け入れて、そのまま十数年スパイの共犯者となってくれたわけだから、「男心」とやらへの理解度はチン同志のほうが上だったということになる。
 ちなみに、『京劇への招待』(魯大鳴 著/2002年 小学館)の「京劇の歴史」の章によると、京劇は現在の日本の歌舞伎と同じく男のみが演じるものだったが、1894年には女性役者のみの劇団が登場して、北京で人気を博し、大戦後の1950年代には男女混合で舞台に立つようになっていたという。1960年に花形俳優だったリリンのデビューがいつ頃かはわからないが、修行中にさまざまな改革があり、男女混成劇団が主流となっていく中で、女形としてのアイデンティティがゆらいでいた(その中で彼の仕事を奪うかたちになった女性俳優――女性に、いくばくかの敵愾心があった)のかもしれない。とまれ、彼が持ち出してきた「なぜ京劇では男が女役をやるのか?」の問いかけ自体、すでに古い時代のものだったことは確かである。
 
「見る/見られる」の構図は、もちろん我ら観客と演じ手(ひいては舞台そのもの)にも適用される。ガリマールの性の目覚めとして描かれたエロ本は「ストリップ」と「窃視」のフェティシズムに訴えかけていたが、それは後半のリリンが蝶々夫人からメンズスーツに着替える小休憩とも呼応している。リリンは観客に向かって「楽にしてください」と休憩を促すが、「わたしはずっとここにいます」という。観客はステージ上にあるものを観に来ているわけだから(そして、我々はオタクであるのだから)「それ」を観ずにはいられないのだ。その後の、メンズスーツを脱いで生身を晒すくだりは露骨にストリップショーの再演であるが、「見せる」対象はガリマールひとりだから、こちらのほうがより一層「窃視」に近い。作中で滑稽に戯画化された欲望に観客も巻き込んでいく演出だ(まんまと巻き込まれたワタクシは観劇中に4回くらい意識が遠のきましたね。これも後段で語っているよ)

「西洋と東洋」「男と女」「見るものと見られるもの」とトピックを並べてきたが、これらは同じ概念の語り直しである。本作の演出家・日野雄介はパンフレットで「支配する・支配される」という言葉で提示している。
 舞台上で交わされる視線のやりとりは「支配/被支配」を如実に表している。「サディズムマゾヒズム」と言い換えてもいい。エロ本を手にした少年ルネの「見られたがっているのだ」から始まり「支配されたがっているのだ」「無下にされても耐え忍ぶのが“彼女ら”の美徳であり、それを望んでいるのだ」へと移っていくガリマールの歪んだ認知が、ラストの形勢逆転により、己に返ってくる。「ひどい男に、ひどいことをされた」自身こそ「あの蝶々夫人」であると自認してしまう。ゆえに最期はみずから蝶々夫人に扮し、蝶々夫人のように自刃しなければならない。己の幻想を守るには、幻想と心中するしか道は残されていないのだ。
 ところで――限界視力と限界記憶力ゆえ、舞台版がではどうだった定かでないのだが、映画版においてラストに「蝶々夫人」メイクをするガリマールは、和装メイクと京劇メイクを混同しているように見える。無論ガリマールにとっての蝶々夫人=リリンであることも一因だろうが、舞台版で「京劇のことを周りの誰も知らない」とセリフにあるように、彼が結局、「男と女の違い」はもちろん、日本と中国の見分けもつかない、東洋の文化(=女性)にリスペクトがない、「傲慢な西洋の白人男性」のまま、最後までいったことを示しているように思えてならないのである。
 
 ところで、女性性にマゾヒズムを紐づけ、「女装をすることでマゾヒズムの欲求を満たす男性」についての解説は『美とミソジニー』(シーラ・ジェフリーズ著/2022年 慶応義塾大学出版)に詳しい。
 その嗜好は「オートガイネフィリア(自己女性化性愛)」と呼ばれている。「男女の区分をただ染色体の違いによって顕れる肉体のタイプ」であるとせず、肉体のタイプに基づいて付加された社会的な役割こそを「男・女」として解釈しているから、「女らしい」振る舞い――つまり「見られる」「支配される」「ひどいことをされる」側に自分を置きたい(マゾヒズム的欲求を満たしたい)と男が思うとき「自分は男ではない=“女”である」という解釈に至り、女性装をすることでマゾヒズム的性欲を満たすのだという。
 当然ながら、性別が女であるというだけで「ひどいことをされる」いわれもなければ、「ひどいことをしたい」側の要求を受け入れてやる義務もなく、女はみんな「恒常的・定期的にひどいことをされたい」でもない。改めて言うまでもなく、当たり前にそうである。
 フィクションである『蝶々夫人』――それが描かれた背景にある保守的な、旧来の・架空の東洋人女性像をなぞる西洋の男のグロさ。『M.バタフライ』も史実をもとにしたフィクションだが、そのグロテスクは現実に、複雑に表現・演出方法を変えながら再演され続けているのだ。
 

オタク、死すべし(エモ感想もとい告解タイム)

 さて――ここからが本番、エモ感想ならびに告解タイムです。アップまで約5カ月もの時間を要したのは己の罪に向き合うためです。
 一番グッときたのはなんやかんやで、初めて京劇を観に行ったあと、衣装から着替えたあとの白いワイドパンツですかね。下手側から階段状の台へ昇っていくシーン、パンツの裾がひらひらひらひら……ひらひらひらひら……最高でしたね。
 ……序盤も序盤でこれだったので「お、おれは死ぬのか……この現場でしぬのか……??」と命の危機を感じた次第です。同じ衣装で、最初に電話をかけるところの横顔! あれもたまらんかった。一日目はやや上手寄りの席だったのでちょうど真ん前に電話台があってよーく見えたのですよ。最高でしたね。そして極めつけみたいな紺チャイナでの見下し座り、上から睥睨。おれの背を思いっきり踏んでくれ!!!! 先っちょだけでいいから!!!!(?)と錯乱するのを抑えることに必死でしたよ。いや~~最高でしたね。
 スーツに着替えてからはね~~JUMPの山田さんがANNプレミアムで岡本さんを評して「服が似合う体をしている」と語った通りの、高すぎず低すぎない背丈! 肩幅とウエストの絶妙なコントラスト! 「既製服がいちばん似合うスタイルである」というあの言葉の意味するところを存分に味わえる時間だった。最高でしたね。
 まぁうちらはそもそもオタクだからリリンたそにモエモエしちゃうわけで、(便宜上)同担のルネっちがメロメロになっちゃうのもよーく解るんですよ、ちょいちょい解釈違いだけどさ~~。
 
 で、
 そういう表現を着々と積み上げられてきたうえでのストリップからの素っ裸、スケベのルネっちにとってさえ全然嬉しくなかったあの素っ裸は、きらびやかな装飾をはぎ取ったあとに残る「不都合な事実」つまり、「an・anに載ってるセクシーなソロショット」ではなく「フライデーされたときの女と寝てる素っ裸」であるわけです。「演劇やダンスを学ぶために渡米したいと急に言い出す」や「今のままじゃやりたいことやれないからグループ抜けます/事務所辞めます」、ああ、「コンサート中に結婚報告」「クリスマスに結婚報告」……「五輪や万博の広報任命」「右翼の要人と会食」なんてのもありますね。オタクの見たくないもの、耳を塞ぎたい事実――推しが己に都合のいい偶像ではなく、ただその仕事で飯を食って生きている人間であること、それがあの赤裸に表れているように思えました。やってくれたなぁ!(感心)
 ルネっちにとっての不都合な事実は、「スパイに騙されて同性と知らず男を愛した」ことだけじゃなくて、イケてなかった青年期とか、真面目にやってるのにそのせいで職場の同僚に嫌われてるとか、愛のない結婚からの男性不妊発覚だとか(映画版ではカットされてた設定だったので舞台みて「容赦ねぇー」と思った)、彼の人生のあらゆる局面にあって、それらから逃避するために縋ったのが仕事ぶりを褒めてちぎってくれるし妊娠出産まで(!)してくれ、左遷されて帰国しても子連れで追っかけてきてくれる最高の女子ドル・リリンたそだったわけじゃないすか。
 そういうとこまで全部ひっくるめて、彼の現実逃避の幻想であって、「おまえは20年間まぼろしだけ見ていたね」ということを象徴してるのがマダム・バタフライではない、ムッシュ・ソンのヌードなんだよなぁ。
 推しの舞台、前作も大概な内容だったが、今作もいわゆる職業アイドルの人にようやらせたな(逆説的にドンピシャな配役であるともいえる)という内容で、俺としてはどちらも最高だったけど、わりと無事じゃなかった人も多いんじゃあないかと思う。
 こじらせたオタクはルネっちのように、幻想を抱いて死ぬしかないんですよ。俺らは幻想とうまく付き合って、現実と折り合いつけて生きていこうな!!
 

映画との比較ほか細かいメモ

・映画と舞台の最大の違いはリリンの衣装。映画版は「性別を隠す」ために、首元が露になるような服を着ていない。チャイナ服は襟詰まってるからバレなかったわけだ! と早々に納得した。
・着衣時でも見える(盛ったり潰したりが難しい)範囲で一番性差が出るのは首周り(あの「背が低くて華奢で可愛いしめちゃん」にも「BIGな喉仏」があるのだ)だから異性装をする際はデコルテ~首を隠すようなアイテムが必須なわけ。
・舞台は異性役とか特に何の意味もなくふつーにあるのと、接写のカメラじゃないからか、あんまし気にせずデコルテ出るような夜会用ドレスとか脚モロ見えのスリット入りのチャイナとかバンバン着ている。バレちゃわない?! 大丈夫?! って心配しちゃったよ。
・リリンの衣装はとにかくよく着替えるし布が多いので、脱いだ京劇の装飾がなかなか椅子に掛からなかったり、床に置いてた着物ガウンが椅子に踏まれちゃってたりとプチアクシデントに見舞われていて、それでもしっかり演技は続けていて流石であった。SMGOだね。
・若かりし頃の回想シーンでマルクが捌け際に「可愛い子いた! 〇列〇番の……男だったわ」って客席いじり、奴がクソ野郎だというエクスキューズはあっても良い気しねぇな。このテーマの舞台でそれやってええんかなという疑問は残る。
・京劇の劇場で初めて京劇俳優としてのリリンを観るシーンの演目、二刀流の剣舞のある京劇を調べたところ、覇王別姫』の虞美人の舞いが近いと思うのだが、えー、つまりこれもまた「男のために都合よく死んでくれる女」のバリエーションのひとつってことすか……徹底してんなオイ……。
・参考https://t.co/tjHjctPeA4 衣装からしてもたぶん正解では? どっかで公式に演目でてたっけ?
・レポによると梅田公演のアフタートークで演出家の方から言及があったらしい。うーん、そういうのはちゃんとパンフの解説コーナーとかに入れてほしいな!
・この衣装の動物の顔に見える部分が僕の限界視力では可愛いヒヨコちゃんにしか見えなくてちょっと戸惑った。
・2日目の大楽は母と観に行ったんですが、「京劇のシーンのあとに観客は拍手せんの? 内野さんはしてたじゃん。客もすればいいのに。」と言われた。確かにミュージカルとかだとソロナンバーやダンスがキまったあとに観客の拍手あるなぁ。でもなんかそういう感じじゃあないよねこの話は。
・あと母の感想ででかかったのは「農民は一生農業やるんだよ~って。そうだよねぇ!」と。農家出身としては思うとこあるよなぁアレ。
・リリンはチン同志という「当時の中国のリアルな女」を「当時の中国のリアルな男」として見下しておったので、あそこで盛大にしっぺ返しを食らうわけだ。
・「一生いじわるさればいい」と不倫に不倫を重ねたクソ夫を呪うヘルガといい、現実の女性は現実の女性として描かれておるよね。
・ヘルガは『蝶々夫人』について「美しい音楽として楽しめば」的なことを言い、シナリオについてはノーコメントを通す。てかガリマール以外に話やキャラを褒めてる人ひとりもおらんのが「答え」では。
・『蝶々夫人』をヘルガも一緒に観に行ってたら、
 「あの女優、綺麗だったな……」
 「えっ、あれ男でしょどう見ても」
 「えっ」
 「えっ」
 >『M.バタフライ』完<
 だった気がする。
ガリマールの男性不妊症エピは映画版ではカットされていたので、映画版のほうは「こいつバカで助かったーーー!(by リリン)」的な、ちょっと都合よすぎる展開になっておった。舞台版はより「男性性に挫けてるから都合のいい嘘に縋ってしまう」という流れができていて判りやすかったし、間一髪で妊娠カードを切ってくるリリンの勝負強さが見えた。
・「赤ん坊を用意して!」のくだりに、おっこれが噂の『SPY×FAMILY』ってやつ~? と謎に盛り上がってしまった。
「なぜ今『Mバタフライ』なのか」 への回答……もしかして「『SPY×FAMILY』が流行ってるから」なのか?(急な気づき)
・ガチで「闇のスパイファミリー」ないし「スパイファミリーの現実」として打ち出すのもアリだったんじゃないなと思ったが、スパイファミリー自体も別に光のほのぼのファミリードラマじゃあないよな。母役は純然たる人殺しだし。
・フランスではこの「用意した子ども」とも暮らしてたようだけど、裁判のあとその子はどうなったんすかね……可哀想なことになってなきゃいいが。
自己批判させられるリリンのシーン見て、「スパイとして男に男けしかけといて同性愛を罵るのは無茶やん」と疑問に思ったが、映画版の台詞みるに、まずリリンはゲイの役者ということで当局に目をつけられていて、スパイとして使われたってことなのか。この辺は小説版を読めばわかるんだろうか。
・脚本の下敷きになった史実のエピはパンフレットで確認したが、外交官に「同性の恋人」がおったいうことは、役者、性別偽る必要なかったんじゃね??
・「お、男だったんか~い!?」「バイだったんか~い!?」「言ってよ~~~~!!」みたいな……そんなわけわからんすれ違いあるゥ?
・「そうはならんやろBL」どころじゃない「なっとるやないか」が現実にあったと思うと事実は小説より奇なりってことだな。想像力、現実には勝てんかった、と思わさるるね。
・逆に「なっとるやないか」をBLオタクの希望として胸に留めておくべきなのか。
・にしても、自身に起きた出来事をこんな風に脚色した舞台を許容して興行に同行までするってのもすごい話だな。
・なぜ人類は胸糞ダメ恋愛ストーリーを求めるのか、は紫式部の悲劇のヒロイン・夕顔に入れ込んだ藤原孝標女あたりまで遡って考えちまうよね。
・そういえば初対面時に「『蝶々夫人』の洋の東西が逆だったら?」思考実験がありましたが、すでにそういう作品はあるんですよね。森鴎外の『舞姫』です。
最近の学生によると「本田豊太郎はサイテー」らしいよ。未来は明るいね!

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