王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

子どもは持たないほうがいい/死んで、もう一度生まれる 〜まつもと市民芸術館『Le Fils 息子』〜

10月9日、朝

 前日に打った2回目のワクチンの副反応で、その朝、38度の熱が出た。近年まれにみる危機であった。観劇のために、在来線をはるばる乗り継いで長野県は松本の劇場まで行かなければならなかったからだ。
 解熱剤を飲みのみ、痛みヒリつくからだをなんとか動かして松本市におりたった午後。繁華街の宿に荷物を預け、目星をつけていたカフェで遅い昼食をとって、とかく体力を温存することに努めた。幸いにも開演に迫る頃には熱は落ち着いていた。劇場近くの二軒目のカフェでアフォガードを突きながら開演を待つ間、身体の落ち着きと引き換えに戻ってきたある自覚で心は次第に浮ついていった。
 私はついに、帰ってきた彼を観るのだ、と。

3年9ヶ月と8日

 彼と最後に直接まみえたのは2018年1月1日の東京ドームだった。だから暦の苦手な私にも計算はたやすかった。この3年あまりの間に私は職を変え、家も変えた。職を変えたのは前職が無理になったからで、家を変えたのはもとの家に住み続けることが同居人にとっても私自身にとっても無理になったからだ。思いがけず簡単に事は進んだ。たまたま次の職があり、家があったのだ。それは類まれなる僥倖であった。
 無理なときには無理なものから距離を置くことが重要である。だが、それをこなすことが容易でない場合もある。職も、家も、次のあてがあるとは限らない。それを周囲の人間が理解し、サポートしてくれるかどうかも。自分がそこを離れるべきだということに、自分自身が気づけるかどうかも。すべてを実現するだけのカネがあるかということも。
 3年前、彼は気づけたのだと思った。気付いて、そのための行動も的確だった。周囲の理解とサポートもあった。そしてお金も。
 我々は幸運にも、環境を変えることに成功したのである。

 そうして、活動休止と留学と帰国とグループ脱退を経たのち、3年9か月と8日ぶりに、岡本圭人はひとりの少年・二コラを演じる役者として私の前に姿を現した。

 以降、『Le Fils 息子』の結末までの内容バレを含んだ感想です。

家族の話は家の話である

 ある種の現代演劇作品をみるにつけ感心することといえば、最小限に削ぎ落されたセットや演出で最大限に広くものごとを表現するその技法だ。この舞台の場面設定はふたつの家――「息子二コラと母アンヌが暮らし、父ピエールが出て行った家」と、「父ピエールが新しい妻ソフィア・息子サーシャと暮らし、二コラが住むことになる家」がメインで、あとは最終局面に病院が少しだけ、といった構成になっている。セットは何層もの移動式の白い壁で、上手へ下手へとスライドしながら壁を自在に組み換えて、その隙間から家具やホリ(舞台奥)側への入り口を出現させ、ふたつの家を表現する。
 このふたつの家の対比がまた印象的だった。二コラのもとの家には、ほとんどなにも無い。なんか椅子のような平らな台(公園にある備え付けのベンチみたい)と、下手側の壁奥にキッチンらしきスペースがあるだけの描写だ。もうひとつの家、二コラが新たに暮らし始める家は、中央あたりに青いソファーがあり、その裏の壁には洒落た本棚があり、その脇に鏡台とランプがあり、上手奥にはキッチンと赤いダイニングテーブルがある。客には見えないが手前にはTV(たぶん結構でかい)もオーディオセットもある。生活感のある家だ。そして何より色彩のある家だ。
 ふたつの家と同時に対比されるのが、そこで暮らすふたつの家族である。ピエール・アンヌは基本的に無彩色、ないしは暗い色の服を着ている。彼らは仕事をしており、黒のスーツ姿でいることが多いためだ。二コラのよく着ているルームウェアはユニクロ感あふれるグレーのパーカーで、たまに色付きの服も着ているが(彼の精神状態によって色味を変えているように見える)、外出する際も明るい色の服を着ているイメージはない。‟あの”ラストシーンですら、黒の革ジャンである。
 対して、ピエールの再婚相手ソフィアは、鮮やかな色を纏っている。華やかなグリーンのパーティードレス、パステルブルーのニット、明るいベージュのコート。これらを見て、あのカラフルなほうの家は「ソフィアの家」なのだと感じられた。アンヌや二コラの家では勿論ないし、そこで新たに家庭を持ったはずの、家長たるピエールの家、とも思えない。彼には色がないから。仕事に忙しい彼は、幼い我が子の主治医すら把握していないのだ。
(サーシャの纏う色彩をチェックできなかった点で片手落ちの感は否めないが、ほとんど姿を見せないのと、赤子なので常に抱きしめられていて全体を目視しづらかったためである。ベビーカーはなんか派手な柄だったことを記憶しているけど色まで正確に思い出せない)
 カラフルな家が「ソフィアの家」だとするならば、殺風景なもうひとつの家は「アンヌの家」なのだろう。夫も息子も去った家に、幽霊のように独り帰宅する母アンヌ。いつも鞄をたくさん提げている彼女は、あの状況下でも生活のために仕事をしているのだ。とすると、ソフィアが生まれて間もない子を抱え、専業主婦として「ずっと家にいる」ことも関係しているのではないだろうか。最も長くそこに「いる」人間が家に反映されるから、夫と息子に出て行かれた働く女性の住む「アンヌの家」は空っぽで、専業主婦の住む「ソフィアの家」には生活と色がある。この舞台において家を守護するのは「母」なのだ。(よって、ここから先は便宜上、それぞれの家を「ソフィアの家」「アンヌの家」と表記する。)
 そして、このふたつの家を往復する父と息子は、二重生活のために引き裂かれていくが、色彩のない彼らは、根本的にはやはり「アンヌの家」のもとにある「家族」なのである。
 終盤に登場する「家」ではない場面は、白い壁の「病院」である。病院に務める医師と看護師は当然、白衣と白い制服に身を包んでいる。エスカレートした自傷行為の果てに精神科へ入院することになった二コラは、なんとも言えない地味な色合いのパジャマ? 病院着? を着ている。彼は、最大の山場である決断の場面で「家に帰りたい」と叫ぶ。この「家」ってどっちの家なんだい? と私は思う。
 彼は一度「アンヌの家」へ戻ろうとしている。しかし、ピエールはソフィアと口論してまで、息子を再度「ソフィアの家」に住まわせるつもりでいる。そうでなければ、「大失敗」になってしまうと。自分が決定し、手を尽くしてやってきたことが頓挫するのを許さない、プライドの高さゆえだろう。
 そうして、あの苛烈な病院の一場が過ぎ、決断したピエールたちが帰宅した先には、赤いダイニングテーブル、青いソファー。……これがどう考えてもおかしいのだ。だって、そこはあんたらの家じゃない! 「ソフィアの家」だ!
 ピエール、アンヌ、ニコラという三人家族が帰るべき家は「アンヌの家」のほうではなかったか。ニコラが本当に、本心で帰りたかった「家」はそこで合っていたのか。
 そしてなにより――その家は「銃」がある家なのだ。

その銃は撃たれるためにある

「チェホフの銃」と呼ばれる劇作における作法・ルールのようなものがある。「物語に銃が出てきたら、それは必ず発砲されなければならない」
 平たく言うと、物語の展開に関係ない物事を舞台上に置いてはいけないということだ。すべての表現、言及に意味があり、その後の展開に関連していなければならない。
 私はこれを知っていた。なので、「父の猟銃」が出てきた瞬間に、この物語の命運を悟った。銃のみならず、様々なアイテムや台詞によって、この物語の結末はそれとわかる者には暗示されている。非常なまでに――非情なまでに親切な脚本である。迫りくる困難な運命に対して、どう足掻いてももがいてもその銃の引き金は引かれ、それによって死ぬか、死ぬほどひどい目に遭うことが約束されているのだ。
 ナイフを隠し持っていたことを追及された二コラが、逆にピエールの隠し持っていた「父の猟銃」を指摘する。「弾は込めてあるの?」とまで返す。このくだりは、「父もまた誰かの息子である」という裏の主題であり、息子の逆襲の嚆矢(銃だけど)を示しているように思える。
 ピエールはあの猟銃を、あれほど忌み嫌っていた父からの贈り物でありながら、捨てることなくその日まで所持し続けていた。父と子の因縁は(二コラから見た)祖父の代から続いている、もしかするともっと前から脈々と続いてきたのかもしれない。
 私が思うに、あの猟銃には、もとから「弾は込められていた」のではないだろうか。ピエールが、二コラと「よく似ている」ピエールが、いつか己を殺すためにと無意識下で準備していたのではないか。それを二コラは、父の代わりに使ったのではないか。
「誰かの父」にならないために。
 色のない家をここで終わらせるために。

「子どもは作らないほうがいい」

 観劇の前日である10月8日、NHK Eテレの「ドキュランドへようこそ」枠で『出産しない女たち(原題:[m]otherhood)』というスペインのドキュメンタリー作品を見た。本当にたまたまだったので、ソフィアの台詞にはとても驚いた。

「人生を楽しみたいなら、子どもは作らないこと」

 すぐに「冗談よ」と茶化す、が、これはこれで一つの真理であるに違いなかった。彼女は夜泣きの酷い「そういう時期」の我が子のため、仕事を辞めて育児に専念している。どんな仕事をしていたのかは我々には知らされておらず、「君も仕事を始めれば~、」と話す夫ピエールに、どこか気のない返事をする。「仕事と育児の両立」を迫られる側であるから。そして、新たに同居することとなった夫の前妻との間の子(「そういう時期」であるらしい!)の世話も焼く。楽しみにしていたイタリア家族旅行はキャンセルになったし、友人宅でのパーティーにも行けなくなった。彼女の「人生の楽しみ」は子どもによって奪われている。
 ピエールは二コラとの最終対決シーンで「何年もアンヌとお前といてやった」「自分の人生をやり直す権利がある」と叫んだ。つまり、息子に指摘された通りの事実として「自分の人生」のために妻子を捨て、新しい人生を始めたのだ。アンヌとの間に二コラをもうけたことはやり直すべき「失敗」であり、己の望んだ人生ではなかった(なくなってしまった)、と述べたのだ。
 アンヌにしてもそうだ。彼女の言動にはしばし、二コラを介して――利用して、破局した夫との仲を再び修復しようとする面がみられる。それは「家」の守護者として、「家族」を元のかたちに戻すためには当然の行動でもあっただろうが、アンヌの台詞からは時折二コラが抜け落ちる。思い詰めてついに死への希求を口にする二コラに「わたしを悲しませないで」と言う。夫に対して語る家族の回想も、ついに「二コラがいなかった頃」まで遡る。銃声直前の「映画を見に行きましょうよ」の会話が、夫婦がカップルだった頃の、いかに人目を盗んでイチャイチャしたかの話になっていったとき、う~わ、とドンびきしてしまった。家族でディズニー映画見に行った想い出とかじゃないんかそこは! そのせいか、直後の銃声はまるで「では、お望み通りに」とばかりに聞こえる。
 ニコラのもつ「漠然とした存在の不安」は腑分けすると、「愛し合っていたはずの両親が離婚した(父が別の家族を作った)ことのショック」からくる「生まれたことが間違いだったのではないかという疑念」「親からプレッシャーを感じている己こそが、親へのプレッシャーであるという事実」で、長らく隠ぺいされていたそれらは、親子が追い詰められるなかで白日のものとなり、ついに、彼はその重みに耐えられなくなったのだ。
 人生の重み。

『出産しない女たち』の話に戻ろう。このドキュメンタリーには、様々な背景、立場から、子どもを持たないと決めた女性、子どもを持ったことを後悔している女性が登場する。
 コメディアンで詩人のケイト(なんという偶然か!)は、「“子どもは欲しくない”とずっと思っていたわけではありません。“欲しい”と思ったことが一度もなかっただけ――この違い、わかります?」と語る。母性本能という神話を信じず、女として生まれたものへ当然のこととして割り当てられている妊娠・出産という「義務」への疑念を、トークショー形式で面白おかしく投げかける。
 写真家として世界中を旅していたサラは、子どもをもったことでそれまで通りの仕事を続けられなくなり、その鬱屈から『母親になりたくなかった』という著書を出版して、ひどい中傷を受ける。「期待されるのはいつも母親です。娘の世話はすべて私の仕事(中略)夫に全部を期待する人は誰もいません。母親は一日24時間365日、子どもにつきっきりです。それなのに人は母親のすることを評価せずに、欠点ばかり指摘します。だから、父親になるほうが楽だと思うんです。」
 別の女性は、18歳で望まない妊娠をして、周囲から出産を強制され「向こう見ずな行いをした代償」のために母親となったが、そのことをずっと後悔している。またある女性は、「人口爆発」による環境破壊の恐れを指摘し、「環境のために一番にやるべきなのは、子どもを作らないこと」「人間は地球や他の動物にとって最悪の存在です(中略)人間は一人でも少ないほうがいい」と語る。最大のサステナブルは「人間が存在しないこと」なのだ、と。

「もし人生をやり直すことができたら、子どもは産まなかった」という人がいます。「子どもを産んだことは間違いだった」と。理由として彼女たちが挙げるのは、まず“母親になることに伴う責任の重さ”です。“自分の時間がなくなること” “母親になる前の自分が失われること”もそうです。誰かに依存されるという人間関係が、この人たちには耐え難いことなんだと思います。(オルナ・ドーナト/社会学者)

 ソフィアの台詞は端的にこのことを指している。父であるピエールも「自分の人生をやり直す」といった発言をする。元写真家のサラの言葉を見て思い出すのはアンヌだ。息子と二人きりのワンオペ育児で消耗し、夫に何度も電話したのに無視され、愛する息子にさえメッセージをずっと無視されていた。夫が出て行ったあとの対応はすべて彼女に背負わされていたはずだが、彼女の働きを顧みるものはなく、息子が自死したのちの彼女の様子に触れられることもない。生きているのか、死んでいるのかすらもわからない。

 私は、子どもを持たないことを決めている女だ。身体的、経済的、思想的、性的指向などの観点から総合して、「恋愛しない、結婚しない、妊娠出産しない」が自身にとっていちばん落ち着くスタイルだと思い、そのようにしている。私は「私の人生の安寧」のために子どもを持たないのである。
 このような思考でいる女は「持たないまま、年老いてから後悔するのでは」などとよく言われる。が、ちゃんと考えてみて欲しい。もし仮に私が子どもを持たず、老いてから「やはり必要だった」と後悔するとき、不幸であるのは私ひとりだ。しかし、うっかり子どもをこしらえてから「やっぱ要らんかったわ」と後悔したとき、不幸になるのは私だけではない。私と、何人かもわからん子ども(と、いるかもしれない配偶者)が、このおおいなる実験の失敗に巻き込まれることになる。
 生まれてきた子どもには当然、責任はない。彼らはある日とつぜんこの世に呼び出され、わけもわからず「生きろ」と言われただけだ。この問題は一方的に、産んだ側、命を作り出した親の責任である。親は子どもが要らないならば、堕胎すればいいし、避妊すればいいし、セックスしなければいいだけだ。
 しかし、親は親である前に一人の人間で、「自分の人生を生きる権利」がある。愛し合って結婚した相手と3日で別れたくなるかもしれない。後先考えず好きにセックスしたいかもしれないし、避妊したくないという彼氏から嫌われないためにしぶしぶ応じざるを得ないのかもしれない。(そして、その結果として生まれた子どもを、「育てられない・育てたくない」とそこらへんに捨て去ったとき、本邦では基本的に母親が刑事罰を受け、父親の存在は透明化される。

 たとえ妻子を傷つけようと「自分の人生を生きる権利」が父にある。ならば息子は息子の権利として、誰が嘆き悲しもうと「自分の人生を好きに生き、終わらせる権利」を行使することができる。「わたしを悲しませないで」と母が息子に哀願するなら、息子は「僕を苦しめるな」と親に迫ったっていい。親である個人の権利と、子である個人の権利は、出産・育児という社会的行為を個々の家庭・人単位にまかせ、家に縛り付ける限り衝突し続け、お互いの人生にプレッシャーを与え合って、壊すものだ。私はそう考えている。
 人生の重み。

 素直な良い子であるところの二コラは、「パパとママが愛し合ってあなたは生まれたの」的な与太を真に受けていただろうし、そのぶん、ショックだったのだろう。「クソ野郎」と罵った勢いで、「親」というものも、畢竟自分と同じ、ただのつまらない人間のひとりで「他人」なのだ、とあっさり見放せたんなら、あそこまで思い詰めることもなかったんじゃあないか。
 新たな生命は両親が「愛し合っているから生まれる」のではない。女性器に男性器を挿入して射精し、精子卵子に受精することによって誕生する。愛情の問題だというなら、愛のないセックスで子は宿らないはずだし、愛し合う男性同士・女性同士の間にも子はできるはずだし、不妊治療なんてものも必要ないはずだ。実際はそんなことはなく、ただ、「繁殖機能の備わっている男女が子どものできやすい期間に避妊なしでセックスする」という至ってシンプルな条件でのみ子は宿る(人工授精等についてはここでは考慮しないものとする)
「愛情だけでは駄目だ」というようなことを、退院させるか否かの決断のシーンで医師は言っていた。 劇場に置かれたチラシにも「その愛情は救うのに十分ですか?」と問いかけるコピーが付けられていた。言いたいことはわからんでもない、が、「愛情」の種類とか、量の多寡はそもそも問題ではなくて、愛だの情だのを起点にすること自体が誤りなんじゃあないか。
 一方的に世話をし、世話をされなければならない、という関係性が固定されており、それを無理矢理にでも成り立たせるために「愛」を用いる、という構造の歪みこそが、最大の失敗の原因だと私は思う。

繰り返される台詞・シチュエーション/「信じない」という正解

 この舞台には繰り返し、繰り返し同じ言葉が出てくる。「失敗(大失敗)」「わからない」「理解できない」「そういう(難しい)時期」「人生」などの言葉。そして「信じて」「信頼して」「きっと上手くいく」というポジティブな言葉も。
 この繰り返される「信じて」が難しい。
 ピエールやソフィアの言うそれは無根拠なその場しのぎか気休めで、二コラの「信じて」は明確に嘘なのである。
 突然「アンヌの家」に戻った二コラは、母に向かって「パパの言いたいことは目を見ればわかる」と言う。励まされても、その裏にある「規範に添え、期待通りに動け」という意識を汲み取って辛い。逆にピエールは、二コラが語る虚飾の学校生活をいとも簡単に信じ切っている。冒頭で彼はアンヌに「(学校に行っていなかったことに)気づかなかったのか?」と迫るが、自分にだってその嘘やごまかしを見抜けなかったのだ。二コラの異変はだいたいソフィアが発見している(カーペットの下のナイフ、公園でのサボり、カミソリでの自殺未遂)
 そして病院で二コラがいう「信じて。変わったんだ!」 彼は死ぬために病院を出ようとしている。病院を出るために、「もう大丈夫だ」と周囲に思わせるために嘘を並べている。その嘘も、両親は見抜くことはできなかった。息子の「大丈夫」を信じてはいけなかったのだ。
 リフレインといえば、自傷行為を正すため「おまえが自分を傷つけるのは俺を傷つけるのと同じだ」と諭すピエールへ「パパがママを傷つけたことは僕を傷つけたのと同じだ」と返すくだり。ここまで父への憤りをうまく言語化できないでいた二コラが、父の言いまわしを借りる形で核心をブッ刺してきてちょー気持ちいい。似ている親子の片鱗が見えるところでもある。
 こういった台詞以外にも、父子のリンクは作中の至るところに、ぜつみょ~に散りばめられている。パーティーの日に子守りを申し出た二コラを本能的に拒絶するソフィアへ、ピエールが「別に?」と嫌味たらしく返すところ。二コラの「べつに」と同じ言い方である。
 繊細で優しいということになっている(まぁ実際やさしくてナイーヴである)二コラが、時折出してくる「学校のやつらはみんなバカ」という傲慢さ。年相応のこじらせた若者らしさでもあるが、父の「あいつ(看護師)頭悪そう」などのナチュラルに他人を見下す態度と重なってくる。ピエールがピエール父に似ているのだから、ニコラも当然、そういった面でもピエールに似ているはずなのだ。
 そして白眉なのがラストのピエールとソフィアの会話。冒頭にも出てくる「きっと上手くいく」を、言う立場が逆になる構成が本当によくできている。喧嘩のシーンでもそうだったが、ピエールは己の放った言葉にことごとく復讐されている。
 ソフィアの言う「人生は続くのよ」は希望でも諦観でもなく、「この家から、己のしでかしたことから逃げるな」という呪い(プレッシャー)である。(ピエールは「続かない」と即否定する。事実、二コラは人生を続けられなかったわけだから「人生は続かない」も真だ。ピエールはあれから息子の自死という「人生の重み」を受け、家族からの「人生を続けろ」というプレッシャーに耐えて生きていく。もしくは、重みに耐えきれず息子と同じ道を辿るかもしれない。)
 ソフィアはニコラの家族ではないし、ピエールにはこちらの家をやっていってもらわなきゃいけない。他人のために「ソフィアの家」を疎かにしてもらっては困るのだ。この作品内でもっとも家(家族)を守る行動をとれているのはソフィアであり、錯乱するピエールを励まし宥めるのも、彼女の――彼女とサーシャの家の安定のため。二コラ襲来後も円滑に家庭を回すことにつとめ、異常を察知したときの行動も速く(ナイフもサボりも自殺未遂も発見者はソフィア)、たとえ自分が非難されることがわかっていてもサーシャの安全を優先して二コラの申し出を拒否できる(一度も子守りしたことのない子どもに乳幼児を預けるのはたとえ相手が心身健康でも無理と思うよぼくは)(子守りくらいやらせとけ、というピエールは実に「父」らしい、家事育児の軽視をにおわせている)
 2回通して観て、ソフィアという部外者が、(部外者ゆえにでもあるが)どんなときも冷静で、タフで、言いたいことをはっきりと言い、前だけ見ているタイプで興味深かった。ピエールが父との確執を話すくだりでも「なんでそれを話すの?」である。ピエール父(にまつわるピエールの過去)にはさっぱり興味がなく、今のピエールがどうであるかを大切にし、ピエールにも今を重視させたがる。すでに別の家族がある相手と付き合おう、なんてことは、そもそも前向きタフ人間でなければやっていけないのかもしれない。
 

他、細かいことメモ

・イラついてるときとか無意識に傷跡をガリガリやったり爪噛むの、すげーわかるし、パッと見で状態がよろしくないことが伝わってきてすごいわ。
・二コラが「ソフィアの家」をめちゃくちゃに荒らすシーン、あれは現実に起きたことじゃなくて抽象イメージ(この家に異物が入ってきたよ〜これから大変なことになるよ〜!)だと思うんだが(家族の直後の対応からして)どうだろう。だいぶ場面が過ぎてから粛々と家を片すソフィアを見て、「やっぱこの家は“ソフィアの家”だな」と思うなどした。ピエールは自分の使う椅子しか戻さんし。
・上記のことがあるので、ラストシーンの数年後の家、あれホントにあのままあの家に住んでるの? マジで? と思う。あんなことがあった家にそのまま住むかフツー? 「家」の内装ごとピエールの幻覚だったりせん?
・「優しいね」ってめっちゃ言うなと思ったのでカウントしたら4回だった。
 1、ワインを自分のぶんも注いでくれた夫にソフィアが
 2、緑のパーティードレスを息子に褒められてソフィアが
 3、紅茶にマドレーヌつけてくれた息子に母が
 4、プレゼントを選んでくれたという息子の彼女(仮)に父が
・「ありがとう」より先に「やさしい」が来る感覚がちょっと不思議だ。フランスではよくあることなんだろうか。
・ピエールとアンヌは職場結婚? で、アンヌも法律関係の仕事をしているから、ピエールの新しい仕事の価値そのものを理解してて称賛している。ソフィアは「やりたがってたじゃない」とあくまでピエールの熱意を見ている様子。
・ピエールの父(二コラ祖父)について二コラがまったく知らんということは物心つく前に死んだか完全に縁切ってて消息不明ということだろうか。
・もし死んでいて死因が銃の暴発(と処理されたが実は自殺)だったりしたら……と妄想は尽きないね。
・「保険のセールスマン」の叔父さん(アンヌ弟)。もしかしたら彼のもとで芸術に触れるルートもあったんやないかという想像が働くね。
・医師、う、うさんくせぇ~~~~~~笑
・この露骨にうさんくせぇ医師の「信じて」が唯一信じていい「信じて」だったのすげぇわ脚本。
・「あいつなんか頭悪そうじゃね?」な看護師くんは、あの面会前に親と逢わすのはアカンはずで(医者が「は? なにしとん?」みたいな顔で看護師見る)つまり相当やらかしていて、やらかしているから言ってることがぎこちなくてアカンく見えるし、やらかすのは実際アカンので、まぁ、総じてアカンのよね。
・アカンけど暴れる二コラをちゃんと連行することはできるぞ。
・病院に転換したシーン、自動ドアからアンヌが入ってきたときに、開いたドアの奥を歩く看護師くんが一瞬だけ見えたんだけど、幽霊みたいでうおっと思う。2回観て2回ともだったし偶然や事故ではないと思うので、何かの意図はあるのだろうがよくわからん。
・ここまで何度か親子でハグするシーンはあったけど、二コラから母に抱きついた1回と病院で1週間ぶりに面会したとき以外で二コラは抱きしめ返していなかった。
・こういう、大して子育てしてない父に家の決定権があるのってシンプルにむかつくけど、逆説的に「なんかあったときに責任をとって首切られるためにいるお飾り会長職」っぽさもあるよな。
たしかにもう手首切らないとは言ったけどさぁ~~(闇の一休さんによる闇のトンチ)
・最後、両親に紅茶をいれて自分はコーヒーというとこもアレよね。彼がもう「違う」ものであることを示してるよね(飲食物の描写を追求するメシ描写厨)
・ひとまずサーシャがつらい目に遭う展開にはならなくてよかったマジで。最大の懸念はそこだったので。
・タイトルの「息子」は誰か。「父もまた息子」というのも裏テーマであると思うけれど、「父」になることをやめた二コラは一生を「息子」のまま終えた点で「ザ・息子」というべき息子よね。
・息子がゲシュタルト崩壊してきたな。
・もう一人の息子サーシャはどういう道を歩むんだろうね。母がソフィアという前しか見ない人なので、なんか大丈夫そうな気がする。
・パンフに精神科医師からの解説ページがあって、こういうのめっちゃ大事だよなと思いました。
ツイッターランドで感想・批評を漁っているとき、「ニコラに共感した」「かつての自分のようだった」みたいな投稿をよく見かけた。これはピエールがニコラを諭すときの「誰にでもそういう時はある」「みんな同じように悩んでいる」などの言葉が事実だということであり、実際、同じような状況で思い悩む若者は「世界中にいる(パンフレットの岡本さんからのメッセージより引用)」のである。でもニコラにとっては、それらの言葉はなんの慰めにもならなかったんだよなぁとしみじみ思った。それらの感想を抱いたみんなたちだって、渦中の頃に同じ言葉で諭されたとして納得できず「自分はとびきり繊細で、非凡な感覚を持ち、それゆえ誰にも理解されず孤独である」と思っていたはずだ。人は孤独であるとき、他者の孤独を関知できない。関知できるようになるのは何もかも過ぎ去ったあとで、その時にはもう、過去の己自身に触れることはできない。矛盾した感想に、ケアの難しさを思った。

それはそれとしてだな、(以下あまり頭使ってないエモ寄り感想)

 彼の声がめっちゃ好きだということを思い出しました。Jr.SPの松尾龍(たつる)くんも指摘していたけど、広い劇場でマイク無しなのに隅々まで台詞が伝わる声量、舞台のための発声がきちんとなされていて、かつ、それがぼくの大好きだったあの声となんら変わりなかったので、第一声の瞬間がエモのピークだった。それでいてかつてあった舌ったらずぽいところもなく、泣こうが喚こうが笑おう叫ぼうが、「泣いて喚いて笑って叫んでる台詞」としてクリアーに伝わってくる。これは大変なワザマエですよ。そのクリアーさによって雑念ゼロのまま作品に集中できた。

 ……できてたんすけど、
 あの、これ元々の脚本のままだったとしたら信じられんというか、「そんなことあるぅ?」と思う台詞があった。3年前から筆者による彼にまつわる記事を読んだことのある読者ならすぐに思い当たるだろう。

「それに、ダンスできないし」

 この言葉をここで、こんなところでまで聞くと思うか? うそやろ。リアル思春期にリアル離婚でリアル再婚でリアル母違いの幼いきょうだいがいるリアル親子(ついでにリアル転校のリアル寄宿学校でリアル自主休講のリアル退学でもある)によるリアル親子喧嘩舞台とか全部ぜんぶスッ飛ばしてそこだったわ。なんのリアリティだ。リアリティってなんだ。おれは何を見ているんだ? いったいなにをみせられたんだ?
 あのダンスシーン、今作中でほとんど唯一と言っていい、客席から笑い声が聞こえてくる場面なんだけどさぁ、そん中でただ一人ボーゼンとしちまったわよおれは。

 あのKing&PrinceがまだMr.KINGとPrinceだった頃、新春のジャニーズJr.定例公演である『ジャニーズアイランド』に岡本親子がゲスト出演したことがある。その際、息子は父に向かって、ほぼ同じことを言ったのだ。

「俺、(KINGみたいには)踊れないから」

 そんなわけが   あった。

 この作品が、2018年にフランス本国で初演され好評を博し、本邦でも演じられることになって、作者の希望通り実の親子を主演にできて何よりあのジャニーズで父は申し分ない実績だし息子のほうは有名どこの演劇学校出たばっかでまともな芝居するのも初で話題性バリ高じゃ~ん、という具合に彼らに持ってこられたであろうこの舞台が、なぜ他でもなく「今」「この内容」で、この世に在ったのか。
 このタイミングで私は彼のいちファンとして、3年9ヶ月と8日の間にもことの次第を見つめ続けるという選択をし、その果てにこの作品を観てしまったのか。
 考えれば考えるほど「おあつらえ向き」に過ぎて、わけのわからない縁(えにし)のようなものがあり、彼と己の運命力が加減知らずで、つまり、めちゃくちゃ見る目があったということだ。そうとしか考えられない。
 1/9の中から引いたジョーカーは正しくここに導いてくれた。

 3年前、そして今年の春。彼に戦えと言った者、もっと努力をしろと言った者、何になる気なのだと言った者。私は覚えている。あの人たちは当然、舞台を観てはいないだろう。別に見なくていいけど。もし、「降り」ずに観ていたならば、訊きに行きたいものだ。舞台の感想より先に、まず、「覚えているか」と。
 私は覚えているぞ。おまえたちが言ったこと、ぜんぶ、覚えている。

 彼の舞台上での仮想の死は、一種のイニシエーション(通過儀礼)だったように思う。「おあつらえ向き」もここまで来ると怖いくらいだが、ほとんど彼のイニシエーションのために設えられた舞台だった。
 我々は彼の死を見届けた。もちろんそれは仮想の、架空の死であるため、現実の彼はピンピンしていて、カーテンコールで再び姿を現す。でも我々は思う。彼はもう今までの「けいとくん」ではないんだな。死んで、生まれ変わって、新しい人生を生きるのだな、と。

「人生は続く」というが、正確に言うならば「降りずに続けた者にとってのみ、続く」のだ。
 何はともあれ、続けられて良かったですね。お互いに。