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川島如恵留ソロ公演「のえぱら」における『名脇役』を読む ~「クィア・リーディング」の可能性について~

 2020年8月1日土曜日。ジャニーズ事務所が新たに開設したオンライン動画配信サービスJohnny's net onlineにて、「Summer Paradise2020 俺担ヨシヨシ自担推し推し 緊急特別魂」(以下「サマパラ2020」と表記)が始まった。
 発表時、その角田浩々歌客みが深いタイトルのインパクトは勿論のこと、全公演生配信かつアーカイブ配信無しであることも物議を醸した。同時期に関西ジャニーズ主体の配信公演が重なっている(一部公演は時間帯も同じ)ことも、出演タレントとして東京Jr.グループが名を連ねるうち、Travis Japan(通称「トラジャ」)だけは各メンバーのソロ公演としてスケジュールが設定されていたことも、そして、初日である8月1日公演、トップバッターを務めるのが川島如恵留さまだということも。    
「不動のトップバッター」それは如恵留さまが所属グループのYouTubeチャンネル(通称「虎Tube」)内で付けられた二つ名である。その企画がゲームであれ、胸キュンムービー選手権であれ、彼は折につけ、一番手のプレイヤーであったり、プレゼンターであったりした。馴染みのないゲームや一口に説明できない主旨の企画でも、すぐにルールや攻略法を捉えられる理解力の高さがあり、規範や基準を他メンバーと我々視聴者に示すことができるからに他ならない。
 そして今回、彼はこの「サマパラ2020」においても一番手のプレイヤーとなった。トラジャだけではなく、「サマパラ2020」に出演するすべてのグループの先陣を切るのだ。これはつまり、「普段Jr.には興味ないけれど、配信2000円で見られるなら」とお試し感覚で視聴券を購入するデビュー組ファンや一般層にも訴えかける内容でなければならないことを意味していた。否、そこまで言い切れるほどではなくとも、おそらく如恵留さまがそのラインを目標として、己がソロ公演の構成をと演出を考えたであろうことは想像に難くない。
「サマパラ2020」公演開始直前の週にアップされた「虎Tube」で、これからの公演内容に軽く触れる流れになったとき、自身の公演を「ジャニーズの王道」・「ミュージカル」だと如恵留さまは評した。劇団四季の子役出身、数々のジャニーズ舞台の板を踏んできた彼らしく、そして周囲から期待される役割からもけして的を外さないテーマであった。    
 そうして迎えた8月1日12時。彼のソロコンサート・通称「のえぱら」が開演した。越えてくるだろうと思っていた期待をさらに越えて、たいへんに「素晴らしい」ものだった。
 全体の感想(例によって脳直箇条書きメモ)は後日アップするとして、本稿でわたしがピックアップして伝えたいのは、公演の中盤、しっとりとした雰囲気のピアノ伴奏コーナーで演じられた1曲『名脇役』のパフォーマンスとその「読み方」である。
 
 

そもそも『名脇役』とは  

 2018年に発売されたSexy zoneの5thアルバム『XYZ repainting』に収録された楽曲である。シングルカットなどはされていないため、グループの楽曲として一般知名度は高くないがセクゾ担の間では人気の高い、「知る人ぞ知る名曲」の部類だろう。個人的には楽曲提供者が邦楽ロックバンド・HOWL BE QUIETの竹縄氏であるところにも大いに着目したいところではあるが(ポニキャ羨ましいな)(小声)ここでは一旦置いておく。
 
 して『名脇役』とは。歌詞は以下で確認できる。
 http://j-lyric.net/artist/a055cda/l044e3e.html  
 「僕」が「親友」である「君」に密かに思いを寄せているが、「君」からは「友達」としか思われていないため、けして悟られないように振舞っている。諦めようにも諦められず、ほのかに期待しては手を引っ込めるような、もどかしく健気な様子が歌われていいる。そのタイトルが示す意味は「恋愛ドラマの主役カップルになれない、カップルの親友=脇役キャラ」であるということだろう。
 この楽曲の歌詞を、おそらくたいていのファンは「友達としてずっと仲良くしてきた女の子のことを好きになったけれど、何らかの理由で告白できない男の子」として解釈しているはずだ。何らかの理由には「今の関係を壊したくない」とか「″君”にはすでに想いを寄せている相手・恋人がいる」などが挙げられるだろうか。
 しかし、この歌詞に別の「読み方」を取り入れてみると、どうだろうか。「僕」が何故、告白できないのか。何故こうも脈ナシを自覚して「言えるわけもなくて」と(諦めきれてはいないが)諦めてしまっているのか——「君」が「僕」と同性の、男友達であったとしたら、どうか。
 まず、全編通して、「君」の性別に関する表現はほぼなされていない。「長い髪」「華奢な身体」のような身なりに関する女性の記号的表現はないし、「君」の台詞にあたる部分でもわかりやすく特徴化された「女言葉」も使用されてはいない。
 唯一、性別に関する記載のある、2コーラス目Aメロの歌詞に登場するフレーズだが、  

「世界探したら 星の数ほど他にも
たくさん女の子はいるから」

 これは「男の数は……35億! あと5千万!」のような意味だけでなく、「女の子を選べばいいのに(選ぶべきなのに)、同性の、男を好きになった」と考えている場合にだって適用できる。こうしてじっくりと精読してみれば、「相手が同性である可能性」を潰せないことがわかる。性指向が異性に向いている、いわゆる「ストレート」であろう友人の「君」に恋心を抱いている、同性愛者である「僕」の姿が見えてくるのだ。
 
 こういった、恋愛・性愛をテーマにした表象物をすべて「男女の異性愛」として処理してしまう「読み方」を一度脇にやって、「“同性愛”としても読めるのではないか」と考え直す試みのことを「クィア・リーディング」という。
 この記事が参考文献としてわかりやすい。
「Official髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解く」  

クィア・リーディングとは、ごく単純化していえば、「女性は男性を、男性は女性を」という異性愛の枠内に収まらない性愛のありかたに注目する作品読解の方法である。
(中略)
基本的にクィア・リーディングは、異性愛だけを前提にした読解では抑圧されてしまう要素に光をあてられるようなときに真価を発揮する方法であると言えるだろう。
(上記記事より引用)

クィア・リーディング」で『名脇役』の歌詞を読み直し、紐解けば、「恋愛ドラマの主役カップルの片割れの男の、親友」像が、にわかに立ち上がってくる。ヒロインに対してどうにも不器用で煮え切らない主人公の青年に、発破をかけてくれる親友の男の子。きっといい奴だ。顔もいいに違いない。主役カップルがめでたくも結ばれれば祝福してくれるだろう。「○○くんもいいけど、その親友の××くんもカッコイイ!」なんて読者に囁かれている“名脇役”。でもそんな彼が、ほんとうは主人公のことをずっと好きだったとしたら――。
(そして、これはあくまでジョークであるけれども「こんなに顔が良くて魅力的で爆モテリア充であろうアイドルが叶わぬ片想いの歌を唄ってもリアリティないよね」という評に対する反駁としても効いてくるのだ。「どんなにその人が魅力的でも、相手が異性愛者(ヘテロセクシュアル)なら片想いに終わる可能性が高い」わけだから。)
 このように『名脇役』という楽曲は、歌詞それ自体が様々な「読み方」を許している(紹介した記事の言葉を借りれば「クィア・リーディングによって読み解かれることを期待して書かれた」)作品であると言える。
 

如恵留さまが「のえぱら」で魅せた『名脇役』  

 ここからがようやく本論である。
 8月1日(土)川島如恵留さまが自身初のソロ公演で披露した『名脇役』、その演出は、カバー元であるSexy Zoneのパフォーマンスを世襲してはいない独自のものだった。
 メインステージの上手では直前の演目『虹』(二宮和也ソロ曲)から引き続き、本公演のバックダンサーを務めたジャニーズJr.グループ「少年忍者」のメンバーである青木滉平くんが伴奏をつとめ、如恵留さまはキーボードセットから離れてハンドマイクを手に歌い始める。サビに入った辺りで下手側から同じく少年忍者の檜山光成くんが登場してコンテンポラリーダンスを披露する、というボーカル・ダンス・ピアノ演奏の3人構成で、パフォーマンスで使用されたのは1コーラス目とDメロ(「君の友達ランキングだったら~」)以降のパートのみである。
 中でも特徴的なのは檜山くんのダンスだ。彼はまず「臙脂色の本」を手にステージ上へ現れる。1サビ終了まではその本を眺めたり、ページを捲ったりという演技をする。Dメロと大サビではコンテンポラリーダンスを見せつつ、やがてステージ上段へと移り、途中、遠くにいる何者かに大きく手を振る演技を挟んでから、最後は再び本のページを開いて読み進める姿を残し、楽曲の終了とともに暗転——どの公演でも、基本的にはこのような流れだった。
 その間、如恵留さまは檜山くんを見つめながら歌っている。とくに歌詞中に「君」の登場するくだりを唄っているとき(「他でもない君でこんな始末に~」等)、カメラは如恵留さまの視線の先には檜山くんがいる、そして檜山くんはそれに気づいていない、という構図を切り取っているのだ。無観客配信時のカメラワークは通常の(観客を入れた)コンサートのものとは違い、スタジオ収録やMV撮影のそれに近く、あのようなカットの連続ももちろん意図された演出であろう。
 それらが、さきの段で解説したクィア・リーディング」で読み解ける歌詞の可能性をそのままパフォーマンスとして昇華させたもののように私には思えたのだ。

様々な「読み方」と、私の読んだ『名脇役

 この『名脇役』のパフォーマンスについて、配信視聴者の中でも様々な意見があった。例えば、如恵留さまと檜山くんを「同一の存在」とする——檜山くんは想い人に対して「なんでもない」ように振る舞う表向きの「僕」であり、如恵留さまは苦悩する「僕」の内面の表現であるとする説や、檜山くんを過去の「僕」として現在の「僕」である如恵留さまが回想しているとする説、などなど。
 もちろん、それらの説についても可能性は消えていない(その上でなお、片想いの相手が同性である可能性も依然として消えてはいない)けれど、私はシンプルに『名脇役』の歌詞中の一人称「僕」を話者=歌唱者とし、「僕」である如恵留さまが見つめる先にいる檜山くんを、この楽曲で歌われる「君」であると読むことにした。
 男性メンバーしかいないジャニーズのコンサートにおいて、恋愛・性愛をテーマにした楽曲で「相手の女性」の存在をこちらにも見える形で演出する際、スクリーンの映像を使ったり、女性の記号を付加したマネキンを置いたり、マイクスタンドやコートハンガーを見立てる手法がよく取られる。今回の「サマパラ2020」における他メンバーのソロ公演でも、松田元太の『PINK』、松倉海斗の『Street Blues』などで用いられていた手法だ。共演するメンバーやバックのJr.を女性役として演じられることもあるにはあるが、ジョーク交じりであったり、露骨に絡んで「キャー」を誘発させる、セクシーさの演出のための仕草であることも多い。(しかしこの数日後に同じトラジャメンバーの吉澤・七五三掛が、それぞれのソロコンで共同演出によって一組のカップルを演じる事態が発生するのだから油断ならない)メンバーが男役・女役を演じるパフォーマンスだったとして、こうして二者が接触するわけでもなく、ただ視線と構図でのみ慕情を示すというのは珍しいだろう。
 重要なポイントとして、檜山くんの手にしている「臙脂色の本」が、如恵留さまと檜山くんが実際に取り交わしていた「交換日記」であることが、12時回のMCで明かされていることに着目したい。パフォーマンスの小道具として使用されたこれが、ただの「本」でも「日記帳」でもなく二者間で交わされるコミュニケーションツールである「交換日記」であることも読解のキーになっている。
 2回目の15時公演において、1サビパートで登場した檜山くんは手にした本のことを誰かに尋ねられて、「……これ? 内緒!(本を指さしてから、人差し指を口元に持っていく)」と返すような演技を入れている(12時、18時公演では無し)。一人で書いている日記帳はふつう部屋から持ち出したりはしない(内容が秘匿すべきものであるなら猶更に)だろうから、他人に見とがめられることもない。「内緒」にしておきたい第三者のいる場面にそれが持ち出されているということは、離れて暮らす二者間でやりとりされている「交換日記」だと推測できる。    この公演の『名脇役』のストーリーにおいても、「僕」と「君」は交換日記のやりとりをしているのだろう。「君」は「僕」に一人の友人として、「僕」は「君」への慕情を隠しつつ。
 また、ピアノ伴奏コーナー終了後のMCで如恵留さまは、さきに披露した2曲『虹』『名脇役』について、「ちゃんと自分の気持ちを言葉にして相手に伝えることがとても大事なんだなと気づかせてくれる」曲、「自分の心の中に持っている気持ちをちゃんと相手に届けないと、どこかですれ違ってしまう」ストーリーになっている、と紹介している。『名脇役』の根底のテーマが「伝える」ということであるならば、主人公である「僕」の気持ちも何らかの形で、最終的には伝わっているのではないか、そう、例えば「交換日記」によって。
 ここで最終パートの檜山くん=「君」が再び手の内の「日記」を読むシーンと、「君が知るのは いつになるかな」というフレーズ、そして如恵留さまがピアノ伴奏の最後の1音を、伴奏者の青木くんに代わって鳴らし、暗転する演出を考えていくことになる。「君が知るのは~」というくだりで「日記」に目を落とす檜山くんは、読むことで「知らされて」いるのではないか。そしてそれが、『名脇役』の歌詞で綴られた通りの「僕」の告白だったのではないか。
 さらに、大サビに入る前の「遠くにいる何者かに大きく手を振ってみせる」ような檜山くんのマイムがある。「誰かと待ち合わせをしていて、相手がやってきた」ようにも、「離れていく誰かにずっと手を振っている」ようにも見えるこのくだりを、「僕」と「君」が、交換日記を続けられないくらい離れて暮らすことになった、別れの場面なのではないかと私は考える。そして「君」はもちろん、手紙やメールなどで交流を続けるつもりでいて(交換日記というアナログなやりとりをしているので、メールやSNSなどの連絡手段が発達していない時代設定なのかもしれない)、対する「僕」はもう「君」との交流を絶つつもりでいる。最後のメッセージを交換日記にしたためて「君」へ託し、「僕」は二人の関係に終止符をみずから打った——それが、「楽曲のピアノ伴奏の最終音を如恵留さま自身の手で弾いて終わらせる」という演出に繋がっている。そんな風に感じられた。
 

見開き5ページの「交換日記」に書かれた内容

 ここからはより憶測の度合いが強い(ほとんど妄想・妄言の域である)内容のため、話1/22程度に聞いていただきたい。
 如恵留さまが檜山くんと実際に交わしたという交換日記の内容について、もしかすると如恵留さまはこの『名脇役』のパフォーマンスが「クィア・リーディング」に基づいた解釈で演出されることとその意義を、共演者である檜山くんに伝えるために交換日記を用いたのではないだろうか。まだこの社会において偏見が根強く、ともすれば揶揄されてしまう同性愛の描写を表現として取りあげる際に留意すべきことなどを「見開き5ページ」使って伝え、それに同じ分量で応えてくれる檜山くんだったからこそ、共演者として舞台に上げたのではないだろうか。
 それがほのかに感じ取れる動画が「ISLAND TV」にもアップされている。

檜山光成、深田竜生「土曜日チャンネル!」

深田「いい話めっちゃしてくれた」「経験からいろんな話してくれて」
檜山「学ぶことばかりだった」
深田「ほんとにね、聞き入っちゃった」
檜山「考えたことなかったことまで」「そんな話をしてくれる人ってなかなか居ないんでね」

 檜山くんと深田竜生くんが、公演の準備をする中で如恵留さまとの交流について語り合っている。「考えたことなかった」のは「ISLAND TVや仕事のこと」のほかにも、本公演における様々な演出の意図や、その意義も含まれているのではないかと思う。

(以下、8月10日のトラジャソロ公演オーラス後の追記)
 8月10日18時、宮近海斗ソロ公演の最後にメンバー全員が揃い、各々の公演を振り返るくだりで、如恵留さまはこうコメントしている。

(前略)いろんな演出が盛り込まれていたんですけども、やっぱり僕がジャニーズで学ばせていただいた歴史、様々なパフォーマンスの種類や、様々な愛のかたちの在り方、いろんな方とたくさんコミュニケーションをとれるより良いやり方を僕なりに表現させていただきました。

 
「様々な愛のかたちの在り方」という言い回しからは、「異性愛のコード」を用いない表現やその「読み方」への目配せが感じられる。「誰も取り残さない」をメインテーマに掲げた「のえぱら」における、手話表現とはまた別の「多様性」を意識した取り組みであったと言えるだろう。
 

とあるYouTube企画の「裏設定」    

クィア・リーディング」の話をするついでに、ひとつ思い出すことがあったのでここに書き留めておく。 「虎Tube」で2018年11月に公開された企画「Right-Onカップルコーデ対決」において、トラジャのメンバーは2人・2人・3人の3組に分かれることになった。奇数人グループのチーム分けの常として3人チームができ、男役2人に女役1人で「カップルコーデ」を披露するという「ポリアモリー推奨か?」と思うような3人チームに組み分けられたのは如恵留さま、松田元太、松倉海斗だった。この中では松倉くんがカップルの女役を、如恵留さまと元太くんは男役を務めてカップルらしく帽子・眼鏡・アウター・デニムを合わせたコーディネートをしてみせ、対決では見事一位を勝ち取っている。


Travis Japan【カップルコーデ対決】女性役も自給自足!Right-onの店長さんの判定は?!

 ここで重要なのは後日談である。元太くんの「Johnny's WEB」内ブログ(通称「げんまる」)2018年11月22日更新の記事で、このYouTube撮影について、「あの写真は、のえるとおれが松倉を取り合ってるように見えて、メンズが付き合っている設定」だと紹介したのだ。(※現在、当該ブログ記事は「Johnny's WEB」の仕様上、過去ログとして押し流されてしまい読むことはできない)(何かの機会に過去ログが一挙公開がされることもあるのでその時が来るのを待たれよ)
 確かに、動画内で撮影された写真をよくよく見れば、松倉くんを囲む二人が、その後ろでそっと手を繋いでいるのがわかる。(7:20頃)これもひとつの「クィア・リーディング」だろう。「カップルコーデ」という企画であるなら「男女の、ヘテロカップルによる、メンズとレディースのファッションを調和させたコーディネート」だと認識されるし、実際に執り行われた企画の主旨もそのようにあった。が、如恵留さまと元太くんは「異性愛のコード」をそこから除外し、「カップル=男女のものではない」、「メンズとメンズによるカップルコーデ」というクィアーな「読み方」をそこに示してみせたのだ。
 
 
 と、あと一時間ほどで更新されるであろう定期更新分の如恵留さまのブログですべての答えを提示されて覆りそうな記事ですがなんとか間に合わせたのでアップします。良いのです! 「読み」は多様に開かれているものだから!