王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

この頃のこと

 推しの、ほぼリアルタイムで動いている姿を久しぶりに見た。
 春である。
 
 転職から一年半経った。現在の仕事は少し珍しいスタイルで、春と夏に長期休暇がある。時給制の非正規労働者であるわたしはその間、無給となる。ゆえに、春と夏だけ短期の出稼ぎに出ることになる。
 幸いにも、転職してから一度目の春に採用された出稼ぎ先で仕事ぶりを評価され、この春も再度呼ばれることとなった。来年もおそらく呼ばれることだろう。
 通勤には電車を使う。「自粛の要請」という不可解な要求にもとづいて、「時差出勤」「リモートワーク」に協力しているのだろう、普段ならぎっちり寿司詰めで、ドアの淵に手をかけてえいやと乗りこんでいた電車にも不快感なく乗ることができる。といっても、他の乗客との間隔は2メートルに満たない。
 
 わたしたちは常に危険に晒されている。休んだぶんだけ稼ぎのなくなる人間は、常に。
 推しグループのメンバーの一人が、この春からのドラマに出演することになった。派遣労働者を主人公にしたドラマで、13年ぶりの続編ということらしい。そういえば、と思い出す。ある会社では従業員がマスクを配布されたが、派遣社員は配布の対象外だったらしい。とすれば、あのドラマにおいて、新入社員役の推しグループメンバーにはマスクが配られるが、13年間派遣の主人公はたぶん、派遣先でマスクをもらえないのだろう。そんなことを考える。
 有事の際に切り捨てられるもの。生活の保障をされないもの。マスクをもらえない派遣。アルバイト店員。フリーランス。「人を集めること・人と集まること」それ自体が目的のエンターテイメント。「人そのもの」を売りだすタレント・役者・アーティスト、そして性風俗産業。
 
 推しグループの単独公演は前期日程が中止となった。5月に予定される公演も正直いって無理だろう。ほか、推しバンドのミニツアーも全日程が延期になり、個人的にとても楽しみにしていた小規模イベントも中止になった。延期になったライブは、振替えの日程では参加が難しく、払い戻すことになってしまった。他にもたくさんの公演やイベントが中止になっている。TVドラマ・バラエティー番組の収録にも影響が出始めている。
 そんな中、バンドマンたちはスタジオライブを無料配信したり、過去のライヴ映像などを蔵出しでアップしてくれている。去年魅せられた舞台も、SNS上で異例の配信を行った。そしてジャニーズ公式が、初めてデビュー組のパフォーマンス自体の配信をYoutubeチャンネルで行った。観客のない横浜アリーナの座席を電飾で飾り、彼らは歌って踊って、手を洗って、マスクを作った。3日間のパフォーマンス配信と舞台裏ドキュメンタリ、追加配信まで、趣向を凝らしたエンタテインメントを見せてもらった。
 それに影響されてかどうかは定かでないが、「留学」中の推しがFC限定ブログに動画をアップした。海の向こうの遠い国で起きていることを、以前と変わらない独特の間のある話し方で伝えつつ、元気な姿と、現地時間で誕生日を迎える瞬間と、手洗いダンスも披露してくれた。
 彼の暮らすNYはすでに街から人が消え、自宅待機を余儀なくされている。欧米では此度の疫病によって、アジア人種への蔑視がより露骨に表出しているという。本邦の中において外国人(特に中韓国)へひどい蔑視があるのと同じなのでそこに驚きはない。失望もない。期待がないからだ。
 この非常時、一律の金銭による保障を求める声に対して「外国人まで保障する必要はない・したくない。国民ではないから」と言った議員がいる。この理屈がまかり通るとすれば、いま、他国にいる推しは、その国では外国人であるから、保障を受けられず、身動きもとれず、見捨てられて死ぬということだ。
 たやすく人を見殺しにする国だ。だが、今に始まったことではない。常に、常にそうだった。
 
 あのイベントも当然、延期になった。そして何の保障の決定よりも早く、延期後の日程が公表された。
 推しグループがあのイベント絡みの文化事業に参加することが報じられたとき、率直に「やだなぁ」と思った。だから正直な話、その公演が中止になってほっとした。どんな大舞台だとしても、出演することがなにかしらの誉れであったとしても、推したちがその決定を悲しんだとしても、ほかのファンたちが嘆いていても、私はわたしの理屈と感情で、推しがあのイベントに関わることを望まないし、「延期じゃなくて中止になんねーかなー」と今も思っている。あと一年間ずっと思い続ける。
 その開催のために他の定期開催イベントの会場を奪ったあげく、金の流れも不透明で、気温対策もとんちんかん。パラ・トライアスロンの選手をクソの海で泳がせようとし、疫病によって生活をおびやかされる人々への保障よりも優先されている、あのイベント。
 
 推しは国営放送のあの番組に次クールも出演が決まったらしい。数多ある放送局(当該放送局込)の中でも数少ない、良心的なプログラムの一部だ。この枠は貴重だ。「舞台手話通訳」の回、虐待を考える特集も興味深いものだった。
 この番組をきっかけのひとつとして、彼はメディア露出の際に手話での挨拶を添えるようになった。Youtubeやそのほかの番組でも、彼が手話や指文字を使って簡単な挨拶を送っていることが見てとれる。意識して勉強し続け、雑誌のインタビューでは検定に挑戦するという話もしていた。「宅建」は 「資格を持つことを目的とした資格」ようはセルフ・ブランディング、箔付けのためだったが、手話は彼のもつ「理念」に沿い、今後もさまざまにな場面で活かせる技能だ。私はどんな必要に駆られても興味を持てないものにとことん興味を持てないタイプの人類なので、それが必要というだけで勉強を続けられるひとを尊敬している。
 貴重な枠だ。しかし、企画の根本にはあのイベントのプロパガンダが流れている。もしイベントが中止ないし終了という向きになったら、この番組の存在意義もなくなってしまうのだろうか。否、である。
 あのイベントがなくなったからといって、パラ競技自体が消えてなくなるわけじゃあないだろう。パラでないほうの競技だって、すべてがあのイベントの“ためだけに”存在しているわけではなく、毎日のスポーツニュースで個々の大会の様子が報道されている。四年周期のイベントには関係なく、パラ競技にフィーチャーし、社会福祉の観点からも切り込めるような固定のプログラムがあってもいいのではないか。あって然るべきではないか。今からでも、そういう風にはならないのだろうか。
 そんなことを考えている。一年間、ずっと考え続ける。
 
 そういえば、番組内で紹介されたパラ競技のルールについて、ひとつ興味深いものがあった。唯一の男女混合チームでプレーする「車いすラグビー」において、「女性選手がチームに加わることでチームが強くなった」という。この理由を考える問いが出題された。
 下記の配信サイトで見ることができる。

ハートネットTV「パラマニア」 [特別活動 小学4~6年・中]|NHK for School

 3組の回答者たちの出した答えは「模範誤答」ととでも言うべきか。どれも男女の通り一遍(ステロタイプ)な精神面についてしか考えられていない。正解は「チーム編成において女性選手がいると有利になるルールがあるから」なのである。
 他のチーム戦パラ競技にもある「チーム編成時の持ち点」――ソシャゲでいうとデッキコストにあたる概念で、障がいの度合いによって選手それぞれにポイントが振られており、その合計点が規定以下でないと試合に参加できない。そして、女性選手がメンバーに加わると持ち点の上限が0.5点プラスされるため、持ち点が高い(障がいが軽い)選手を組み入れることができ、有利になる、というのだ。
 これは実質、「女性選手は通常のポイントからマイナス0.5ポイントされている」ということであり、「女性であるということ」自体が、「障がい」であるということに他ならない。むろん、個体差はある。今、推しが共演者である元女子レスリングのメダリストにレスリングで挑んでもまず勝ち目はない、が、推しがレスリングの選手と同じだけトレーニングをこなして経験を積んでいたら、違う結果になるかもしれない。そして、そこらにいる男子と女子を無作為に選んでレスリングさせれば男子が勝つ可能性がずっと高い。体格や筋肉量など、男子は女子に対し肉体的に圧倒的優位をもつからだ。「霊長類最強男子」は「霊長類最強女子」よりも強いだろう、ということだ。
 男性選手の身体を「常態(デフォルト)」とした場合、女性選手の身体は「常態ではない・異常・障がい」となる。だからポイントが補正され、参加しやすいようにする。これと同じことが、逆の方向性で起きたのが、医大受験における女子受験生への点数操作事件だった。
「健常」とは「常態」とはなにか。「普通」ってなんなのか。それらを切り分けるもの。そして切り捨てられる、周縁のもの。弱者。少数者。
 そんなことを考えている。
 春である。