王と道化とその周辺

ちっぽけ嘘世界へウインクしておくれよBaby

「報告」するのは誰か~新橋演舞場『オセロー』についてのひとつのメモ~

 9月某日、『オセロー』を観に行った。
 これまでシェイクスピア関連の舞台は子ども向けに翻案されたもの(無論、「子ども騙し」という意味ではなく、子どものためにガチで作り込んだもの、である)にしか触れてこなかったので、今回が人生初の本格的なシェイクスピア作品観劇である。
 急病により活動を休止し――そして先日、引退を発表した今井翼さんの代役としてジャニーズWEST神山智洋さんがイアーゴーを務めるという報せに、「シェイクスピアの悪役を演じる神ちゃんを見たい!」と、友人と誘い合わせて軽率に申し込んだ。一般発売日にうっかりしていて初動が遅れたため、地方民が遠征できる週末の1階席はほぼ完売、2階席と桟敷席がかろうじて、といった具合で、相談のすえに2階席下手側1列目を確保した。(1階での色々な演出が死角に入ってしまうややつらい席だったことを知るのは開演してしばらく後でした。ぐぬぬ。)

 一度きりの観劇で、他の演出家による演出も知らない。たった1回きりの観劇体験でもっともらしいことを言うつもりはないが、ひとつだけ私の得意分野の範疇で語りえることがあったのでメモとして残しておく。

 ラストシーン、議官のロドウィーゴーの台詞「(この一連の事件を)報告をしなければ」で幕引きになるはずの場面で野盗(あるいはトルコ兵)に襲われてイアーゴー以外全員死亡という演出になっている。原典の戯曲にある「退場」のト書きに対して随分と大胆なアレンジである。
 これを見たとき、「報告」できる人が、本当に最初からことの顛末を知っていた黒幕のイアーゴーしか残らなかったのだな、とうっすら思ったのだが、第三幕から展開される鏡を使った演出で「鏡に舞台を見ている“観客”が映っている」と気づいて慄いたのを思い出し、「事件の黒幕としてほぼすべてを知っているイアーゴー」と「同じく、最初から事件の次第をすべて把握しながら、止めもせず黙って見ていた我々」が残ったのだと気づいてしまった。
「報告しなければ」という締めの一節にはひじょうにメタフィクショナルだ。それは「このあとこの一連の出来事がどこかで再話される」→「今ぼくたちわたしたちが読んで・見ているのは『報告』として再話されたものである」という「物語化」への言及だからだ。
 そして今回の「報告者ほぼ全員死亡END」は「え、もう『報告』できないやん?」という引っかかりになっていて、「んじゃ誰が『報告』すんねん」と考えていくことになる。イアーゴーは「報告」できるのか。できそうにないな? では「報告」するのは誰か。私たちしかいないな?
 我々は、あの鏡によって舞台の上に、すでに巻き込まれている。
 嫉妬に駆られたイアーゴーとオセローの凶行を、すべて知りながら黙ってみていた我々には、「報告」する義務があるのだ。ゆえにこの物語は語り継がれてきたのだ。

 ――そんな妄想を掻き立てる、興味深い演出があったとさ。
千穐楽お疲れさまでした記念にアップします。)